#MeToo

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これって男性が被害者の#MeToo事例だと思うんですけどね。

リスクを低く見積もるのが理性的振る舞いという風潮

タイトルオンリー

ブラックフェイス

ダウンタウン浜田の顔面黒塗り問題。
無知でやるのは、わかっててやるより悪いって果たしてそうなんでしょうか。人が差別しているからと言って何も自分で考えずに真似をして同じように差別する。そのような無知はわかっててやるよりも悪いかもしれません。でも、全く非意識の差別的なバイアスを持たない人が、黒人の物まねをするのに顔を黒く塗る、それは果たして悪い事なんでしょうか。
マインドバグあるいはそれを生み出す非意識のバイアス((心の中のブラインド・スポット: 善良な人々に潜む非意識のバイアス - Mahzarin R. Banaji , Anthony G. Greenwald (原著)))と戦うって観点から見た時、如何に人々の間に差別に繋がる非意識のバイアスを生じさせないかって観点で考えると、今のダウンタウン浜田の顔面黒塗りを騒ぎ立てる差別対策の在り方って正しいんでしょうか。
もちろん黒人差別が少し前まで存在していた社会、非意識のバイアスとして残っている社会においては、現状できる対策としてブラックフェイスを差別とする対策ってありだと思います。でも、黒人差別が非意識のバイアスとして存在しない日本(日本人に非意識の人種差別バイアスがあるとしたら黒人ではなく外国人全体でしょう)において、非意識のバイアスのある社会と同じ対策を取るという事は、結果的に日本人の中に非意識のバイアスを生み出し、潜在させる結果にならないんでしょうか。
差別対策というのは、社会に応じて異なるものであり、また社会の成熟に伴って見直され、より人が自由を取り戻す方向に更新されていくものじゃないでしょうか。
日本における人種差別対策というのは、アメリカ社会の人種差別観ではなく、日本社会の差別観に基づいて行うべき何じゃないでしょうか。日本において人種差別対策をするのなら、外国人全体を対象とすべきであって、黒人に特化して問題視することは、やはり認知(非意識レベル含む)の認知の歪みに繋がりかねないのじゃないでしょうか。また日本における人種差別というものを問題にする場合、外国人全体を取り上げるのとは別に、韓国人や中国人については別に取り上げる必要があるかもしれません。

哲学

理系のコミュニティを観察しているとやはり、理系にこそ哲学が必要なんじゃないかと思います。
いや、理系に限らず、色んな思想、論理が溢れていて、自分好みの思想、論理を選り好みでき、また、思想を同じくするものとばかり繋がれ、客観性のない個人の真理をもっと広い真理だと思い込めるSNSのようなツールがある現代の人すべてに哲学って必要なんじゃないかと思います。
これは哲学史におけるだれそれの思想を学ぶとかそういうのではなくて、子供に哲学を教えようというのと同じ様なものを意図しています。もっと思考自体に焦点を当てて、思考に客観性や公平性をもたらせるような、苦痛に目を背けずに真理を求めるような、そんな思考を成熟させるツールとしての利用とでもいうんでしょうか。
また、子供に哲学をといいますけれど、それは確かにそういった思考は子供の頃から成熟させていくものだと思いますけれど、成熟した思考をする下の世代を受け入れられる社会であるためには、今の大人にもまた哲学が必要だと思うんです。個人的には、成熟した思考をする下の世代に対し「子供だ」「大人になれ」などという社会であっては、子供に哲学を教えたくなりません。

無題

立岩真也氏の論の空虚さって何なんだろうと思っていたけど、http://www.arsvi.com/ts/20170053.htm を読んで(「」は引用)、人の感情を必要以上に排そうとしているからなのではないかと気付いた。氏の論は、生得的な人の多様性については認められているが、人の心や価値観の多様性を元に論が組み立てられいない。結局、氏の論でできあがる社会は、(発達)障害者もLGBTもその事で差別されない社会ではあるかもしれないが、氏の論に都合の良い価値観を持った集合だ。そこからはみ出す人=私のような人間をどうするのだろう。極論すれば、私には自分が立岩氏型統制社会を強制・矯正される姿しか想像ができない。
少し言葉を換えて繰り返すと、立岩氏の論は、人の心理、感情とも密接に関わる分野なのに、そこを軽視している。立岩氏の論は、自己の転落だったり、社会的弱者への共感だったり、元々立岩氏の提示するような社会を求めている人に対して響くだけで、その人たちに求める社会の実現に向けた1つの理屈は与えられるけれど、その範囲を超えられない。元々素養のある人には広まるかもしれないけれど、それは多数派になりえない。素養のある人は今のところ立憲民主党共産党の得票率程度じゃなかろうか。
社会学が某社会学者のように社会を斜に構えて見る為の道具ではなく、社会の現状を認識し改良しようという学問であるなら、もっと心理学や人間学と結びつくべきだろう。個人的な概念の域を超えない「大人(たち)はこういうもん」と『ボクに共感してくれる人がいる』では社会は変わらない。近くにいる人にしかその声は届かない。社会学者は、社会を通じて人を見るのではなく、もっと人自体に焦点を当てて、自分も他人ももっと深く見つめていかなくてはならない。
蛇足だが、私は福祉業についているが、それは「(具体的な)他人の幸福」に貢献する事がたまたま「自分の幸福」に繋がっているのであって、抽象的な「多数の幸福」に貢献したいなんて思わない。「愛は大切だ」ではなく「親近感は大切だ」くらいだ。だから私は寄付も献血もしていないし、ドナー登録もしていない。するつもりもない。でも、立岩氏の論は、私が親近感を抱く人たちの幸せに繋がるものだ。だから、好きだし、信じたいと思う。もちろん自分に不利益な部分があったって良い。でも同時に、立岩氏の論は、そんな私ですら『夢想』のように感じられて、説得されるには至らないのだ。今の社会に身を置いている常識的な私が、あれやこれやと疑問や疑念を提示してきて、それに納得できる答えが存在しない。
どうすれば納得できるのか具体的に指摘する事はできないのだが、立岩氏を支持するような人たちの、これからの活動に対する何らかのヒントになるかもしれないと思い、この文章を書いた。
といいつつ、それは今回の本題じゃなく。
私も子供の頃はよく本を読んでいた。図書室のSFやミステリーの棚を端から端まで読むとかしていた。
私はどちらかというと『そういうもの』と受け入れる子供で、あまり疑問に思う子供じゃなかった。ただ学校の独特なルールは、私のアイデンティティに干渉するものではなかったし、大人の世界と直接関わる事は少なかったから、「大人(たち)はこういうもん」って概念化する必要性は小さかった。一方、本を読む中で、色々な宇宙人が普通に共存しているような世界、色々な人が色々な動機で罪を犯す世界を『そういうもの』と無意識のうちに取り入れていた。それは私が社会に多様性を求める1つのベースになっていると思う。
もう1つ多様性を求めるベースとなっているのが、太平洋戦争期の言論統制だろう。それを学んだ時、『この戦争は間違っている』というような自分の信じる事を表現できない社会というものをとても恐ろしく感じた。それは戦争そのものに対する恐怖に勝っていたかもしれない。
子供の頃の私は、言ってはいけない事を言ってしまう性質が強く、自分の考えている事を言えない世界をあまり想像できていなかった。そこに出てきたのが言論統制という概念だった。『そういうもの』と無意識に取り入れていたものが、自分にとって必要なものになった。
何が言いたいかというと、私の『そういうもの』というのは、小説という虚構から「愛は大切だ」に似た別のメッセージを受け取ったのに近い。学校という現実の中での違和感から導き出した処世術としての「大人(たち)はこういうもん」というものだとは全く異なる。そもそも子供というものは、身近な大人をモデルとして「大人(たち)はこういうもん」ってずいぶんと受け入れていると思うし、そういう中で次善(この言葉には何か違和感があるが)を生きていると思う。
立岩氏のいう「大人(たち)はこういうもん」というのは、次善を生きられていない、あるいは、次善を生きているけどストレスが強い人間の言葉だろう。そのような方向に強い感受性を発揮する子供というのはいる。そして、そのような見方も多様性の1つとしてはあるだろう。でも、私はそのような「大人(たち)はこういうもん」と子供を導くことには否定的だ。私は、P4C(philosophy for children)に興味を持っているけれど、子供の考えることの教材として「大人(社会)がどうあるか」というのはふさわしいとは思わない。それは、自分ができなかった事を子供に背負わせようとする行為にも感じる。
「大人(たち)はこういうもん」という方向に子供を導いて、子供が成長した時に不幸にならない為には、大人への批判を含んだ「大人(たち)はこういうもん」を受け止め、変化させられる度量が大人の側に必要だ。でも、その度量がない事こそ大人への批判を生まれるというのもある。逆に言えば、子供のそのような批判を受け止められる社会なら、子供に敢えて「大人(たち)はこういうもん」と考えさせるよう導く必要性は小さいように感じる。
また、この手の話題になると、主体的に考える事に主眼が置かれるが、各々が「大人(たち)はこういうもん」と考えはじめると、極論すれば、『船頭多くして船山に登る』のに似た状態を生むんじゃないだろうか。従って、私には『考える人』と『その考えを判断する人』のバランスが重要のように感じられる。そして、その判断の材料こそナルニア国物語指輪物語ハリー・ポッターを読んだ経験だと、私は信じる。もちろん他の漫画だって、児童文学だって何だって良い。
そして、そうした多様な経験の上で、子供が何を考えるのが良いのか。私は、『自分が社会にあるどのような価値観を選択しているのか』『その理由は何なのか』と言った事が良いのではないかと思っている。そして、他者が別の価値観を別の理由によって選択すれば、自分とは別の正しさに行き着く事や、自分自身の価値観が生み出す『(他者とは異なる)言葉の概念』或いは『無意識のバイアス』といったものを自覚できるのが良い。

最後に。
立岩氏の文章というのは、単に自分の考え方の方が優れている、或いは、両論あるとただ並立すれば良いところを、どちらにも徹しきれずただただ回りくどくわかりにくくなっている。両論を認めているようで、自分の範囲外のものに対する否定的なニュアンスを隠しきれていないからとても居心地が悪い。認めるなら認める、否定するなら否定するところからはじめた方が良いように思う。
また立岩氏の論は、『自閉症連続体の時代』という書籍とウェブで発表されている文章をわずかに読んでいるだけだという事は付け加えておく。本当はもう少し色々読んでから書くべきなのだろうが、立岩氏の文章は非常に読みにくく、その読解に時間と労力が必要で、氏の論考自体に至るのが困難なので、どうにも避けてしまう。好奇心のメインストリームの部分でもない事もある。

保毛尾田保毛男騒動に対する雑感

私は30年前の保毛尾田保毛男というキャラのコントは見た事が無いし、そのキャラの背景は知らない。2017年に再登場した際の保毛尾田保毛男のみを見てこの文章を書いている事を最初に書いておく。そして、とんねるずにはいじめっ子のイメージがあるし、普段なら保毛尾田保毛男というキャラをそのイメージから判断するだろうけれど、今回は敢えてそのラベルを利用していない。

差別に対して異を唱える勢力には、大きく分けて2つの勢力があると思う。1つは、何かしら人権をないがしろにされている状態の人たちを普通の人たちと同じ状態にしたいと考えている人たち。もう1つは、何かしらの差別行為によってモラルが害されたと感じ、それを正そうとする人たち。要するに、物凄く簡単にいってしまえば、リベラルと保守では、「差別はいけない」という言葉が意味している事、差別という言葉の概念が違うと言う事だ。
LGBT同性婚を例に取ると、前者は同性婚を社会において異性婚と同様に扱ってもらおうと努力する。後者は、同性婚という制度に対して積極的なソーシャルアクションを取らない。しかし、社会に差別と認められている範囲の差別行為があった場合には、その行為に対して大声を上げる。従って、同性婚という制度が社会で認められた後であれば、その制度の廃止を唱える人たちを差別主義者だと弾劾するのだろう。
私は、保毛尾田保毛男に関する大騒ぎには、後者が多く関わっていると感じる。理由は、今回の騒ぎの大きさに比してLGBTの権利拡大に関するソーシャルアクションが少なく感じるからだ。私は、後者の社会のモラルを維持する為に、モラルに反する行為に対して声を上げる自体事は間違ってはいないと思う。でも、最近の傾向は過剰だと思うし、その過剰な反応を誘発したLGBT団体の行動に好意的にはなれない。その理由は後述するとして、個人的には、このようなモラルとしての差別抑止活動は、LGBTへの認知がある程度浸透した現段階では社会の保守的な層に任せて、社会の保守的な層が差別反対を発信しているこのような機会に、彼らの中にいるまだまだLGBTへの意識改革が必要な層に対して、これから解決が必要なLGBTに関する課題を提示した方が良いと思う。
ちなみに私は保毛尾田保毛男というキャラもその名前も差別だとは思わない。その人の個性を名前で表現する手法というのは普通の事だ。あの放送で言えば、むしろ木梨憲武のセリフこそがLGBT差別の本質に近いと思う。無闇に差別というラベルを貼らなければ、保毛尾田保毛男を使って、周囲の人のどのような言動が差別なのか可視化することだってできたと思うし、そういう活動に利用する落としどころもあったんじゃないかと思う。同性愛者に対するバイアスが発露しているのに、それが社会的に問題とされていない為に気付かれていない言動なんてのも意外とあるのだし。
さて、なぜ好意的になれないか。構図が多数派による少数派叩き≒差別に見えるからだ。結局LGBTも多数派の側に回れば、多様性などに興味は無く、普通やモラルといった事を理由に差別する側に回るのだろうなという感覚を持ってしまう。
こう言うと、差別主義者なんて多様性に入らないと言われるのだろう。私は入ると思っている。もちろんそういう人たちに対して差別を指摘する事自体は当然の事だと思う。ただ前述したように差別的言動に対する反応やペナルティが過敏・過剰すぎると感じている。それは、個人の内心の自由を脅かしている。大きすぎるペナルティというものは、大きすぎる罪悪感を与えるものだと思う。私は、個人が生理的だったり、アイデンティティに根ざした部分だったり、何かしら個人的な理由で同性愛者を受け付けないのであれば、それはその個人の勝手だと思うし、その個人の個性でもあると思う。それを表現する自由もあると思う。心を知情意という3つの要素に分ける考え方があるけれど、最近では知に基づいた意(モラル等の理性的な部分)ばかりが人の本質だというように重視されて、情に基づいた意を持つ存在としての人間の本質は軽視されているように思う。私は、情、そして情に基づいた意にこそ幸せがあると信じているし、この傾向が行き過ぎるのは人から幸福や生きやすさを遠ざける事なのではないかと考える。
ただ個人の中のLGBTに対する好悪の存在を肯定しても、LGBTに対する社会的な不利益を肯定する気はない(その為には何かしらのラベルに対する好悪は隠さずに表明してもらった方が補正できて良い気すらするけど)。(有名人の)表現に影響され、それが不利益に繋がる?それは社会が悪いのではないだろうか。責任を表現した個人に着せず、社会が責任を負って、個人的な好悪に全体が影響されないような社会をつくるのが本道だと思う。差別は個人の中には無い。個人の中にあるのは好き嫌いだ。差別は社会の中にこそある、私はそう考えている。その為には、考える事というのはどういうことかを知り、自分自身でしっかり考える事、そして、人は誰でもどこかで差別主義者なのだと認める事が必要だと思っている。
少なくとも、私は自分が差別主義者である可能性を排除しない。実際、この文章でLGBT差別をしているじゃないかと言われるかもしれないが、私はLGBTで言えば、BとTだ。LGBTを差別しても不利益ばかりで利益は無い。むしろ私はLGBT当事者として、保毛尾田保毛男なんてのが大騒ぎになるのに、私自身が全然生きやすく感じられない現状にいらだちを覚えているし、違和感も覚える。そして、その違和感がこの文章の出発点にある。そうではなくて、私には様々な好悪が内在しているし、その感情によって言動が変化してしまう事がある。それがたまたま社会で差別と言われる事と交わっていないだけだと思っているという事だ。
まとめると、今回の保毛尾田保毛男に関する大騒ぎは、LGBT当事者の一人である私にとっては、LGBTの権利拡大に繋がるものではなく(私の生きやすさに繋がるものではなく)、行き過ぎた権利保護に繋がるものである(善良でもなければ道徳的でない部分を捨てきれない私=聖人ではない私にとっては生きにくさに繋がるものである)ように感じられる。もちろんこれは当事者の中でもマイノリティの意見だと思う。

大人の発達障害に関する雑感

この文章は多分に発達障害者への誤解や偏見が含まれているかもしれない。差別だなんだと言って表現を表に出さないようにする行為ってただ差別を個人の中に押し込めているだけじゃないだろうか。そこで、発達障害の問題について考えている人に対し、何がどのように誤解や偏見を生むのかと言ったヒントになればと思い、私がどのように考えているのかを敢えて率直に表現してみる事にした。差別主義者だと言われる事は怖いけれど、完璧な人間ではないのだからしかたない。それにまあ、私はその辺の人たちより発達障害者に対して優しくできるだろう自信はあるし、発達障害について知る事、知識の足りなさ過ちを指摘される事によって自分の内面を、あるいは生理的なものを克服できなかったとしても、社会に対して表現する部分については修正できると思っている。
大人の発達障害者は、学校時代クラスメイトや教師に、理解できない事に対して同意や共感を求められたりして苦しむのだそうだ。まだまだ発達障害の人には生きづらい世の中なのかもしれないけど、今ではきっと発達障害者の仲間が表現したものがたくさんあって、理解者も大勢いて、自分がなぜ学生時代に苦しんだのか理解できるようになって、また、そうやって自分たちの苦しみを表現してるんだと思う。
でも、そういう発達障害者の話をよくよく読んでみると、発達障害者は同じ障害を持つ仲間の声はともかくとして、多数派の中にいる自分たちの理解者の声を誤解しているのじゃないかと感じる時がある。理解者は、社会より発達障害者の考え方の方が正しいという事に理解を示しているのではなくて、発達障害者が他者と違う事で苦しんだという苦しみに共感して、その苦しみに理解を示しているのだと思うけれど、発達障害者は前者のように捉えてる人も多いような気がするのだ。自分たちが固執するものに固執することもまた他者への価値観の押しつけなのに、社会の多数派の側が間違いで自分たちは正しいのだから押しつけではない(大げさに言えば啓蒙なのだ)と思ってるような節がある。
発達障害者を理解できる人というのは、多感な人なのだと私は想像する。子供の時代、普通や常識といったものを素直に受け入れず、疑って考えて疑って考えて、自分なりの答えを見つけ出そうと人たち。発達障害者と同じように既存の社会に疑問を抱いた人たち。違いがあるとすれば、自分が共感できる人や社会の在り方という答えやその手がかりを見つけ出し、知識ではなく心の部分で、人や社会との繋がりを再発見できるか否かなんじゃないかなと思う。
一方、発達障害者はルールに固執する。それはある意味で科学や法に感情移入していると言ってもいいだろう。発達障害者の主観的な正しさは、科学的事実や法の字義原理を土台とし、人間性を喪失していく。大げさのように思われるかもしれないけど、共感という理解できないものを、真実に基づいた行為を阻害する要因と見なしている人はいる。それは結果的に多様性を喪失してしまうような方向であって自分の居場所さえ危うくなるのだけど、発達障害者は気にしない。人としての欲求や生活の主体者であるという事をどこかで軽視している。もしかするとその必要性を自覚していないのかもしれない。自分たちが科学や法に共感と呼べる感情を持っている事に気付いてくれれば良いのだけど、それは客観的真実を求める行為と主観的真実を求める行為を分離しにくくもあるし、自己の客観視が難しい人に自覚するのは難しくはあるだろう。
主観を疑い社会の多様性の中に自分たちの場所を見いだした人たちと主観的なルールを求め多様性を喪失するような方向に社会を求める人たち。既存の社会に対する適応に苦しむ同士でありながら、実は対極に位置している部分もある。
もう1つ、発達障害者の人が、社会の中で他人に合わせて演技をすることを学び、本心とは違う演技をしているのだと、それがまるで発達障害者の特質であるかのようにいう人を見かけたことがある。発達障害でない人間であっても、いつもも共感してるわけではなく、むしろストレスを感じながら演技をしていることの方が多い。発達障害者のように、意味もわからないまま、上の側の価値観を強制されている事だってままある。その事がわかっているのだろうか?と思う。違うのはストレスの感じる場面の量と感じる強さだろう。例えば、発達障害ではないものは、2つのルールがあって、ある場面では片側のルールに従い、別の場面ではもう1方のルールに従うと言った事それ自体にはストレスを感じにくい。ルールを守ること自体にさほど固執しないし、守らない必然性が理解できる場合も多い。
以上、多様性のある社会という中に発達障害という個性を見ている人たちは、発達障害の認め方を改める必要があるんじゃないだろうか。少なくとも、「彼らを認める事」と「彼らの考えを認める事」は違うという事、彼らの主張を正当なものとして上に見ているのではなく、多様性の中に1つの考え方として見ているのだという事を伝えていく必要があるんじゃないだろうか。そうしないと歩み寄りどころか「正しい自分」と「愚かなマス」という認識から分断が進んでしまう可能性もあると思う。
幼児、児童教育においても、発達障害の子供を認め、共感してあげることは大切だろう。でも、何に共感しているのか、その共感をどのように位置づけているのか(真実への共感ではなく、多様性の中における1つの考え方としての共感)を示してあげることが大事なんじゃないだろうか。

追記
例えば長谷川豊の「糖尿病~」発言や小泉進次郎の健康ゴールド免許と言った提言から社会情勢を考えると、個人の自由の範疇で有るはずの生きる快楽の追求がモラル(ルール)化されて制限されようとしていると言えるのかもしれない。前者は当然の事ながら大きな反感を買ったけど、後者には妥当性を感じた人も多いんじゃないだろうか。本来人間の生や多様性の中に有るようものを、そんな風にモラル(ルール)化し、モラル(ルール)を守ることを報酬を持って奨励し反対に逸脱を自己責任化して切り捨てようとする社会って、或いは人間性を無視し科学や論理の正しさをごり押しする社会って、意外と発達障害者にはわかりやすい、発達障害者向けの社会なんじゃないだろうか。
もちろん科学や論理を重視するのは大切なことだろう。でも、それだけじゃない。発達障害者を個性と認めたのは、科学や論理ではなく、その「それだけじゃない部分」なんだって伝えていかなければならないと思う。最後に改めて。

更に追記
まあ以上は、発達障害に限らず自身の主観性に無自覚な頭が良い人全般に言えることでもあるんだけれど。