新潮45と杉田水脈氏

前に書いた事の焼き直し。

私は個人の心の中に差別があるのはしかたないと思います。
家族を優先するのだって突き詰めれば差別でしょう。しかし、多くの人には家族があり、家族に恵まれない人には社会福祉がある。そういう社会であれば(それでも特定の場面に限って)家族の内集団ひいきは差別ではなくなるのだと思います。だから私は、個人の中の差別を責めるのは(自分を客観的に見られない人とか自分を都合良く棚の上に上げられる人とか以外には)生き辛い世の中になると思っています。
もちろん個人的に受け入れられないから社会でも受け入れないで欲しいと考え、そのような言動を行うのは大いなる差別だと思います。同性愛は非生産的だから認めるべきではない等というのは酷い差別であると思います。人の価値をすべてを生産性で語るならまあ一貫性もあるでしょうが(これはこれでめちゃくちゃ問題がありますけれど)、語るものと語らないものがある時点で、とってつけた差別心に対する自己弁護に過ぎないように感じられます。そして、それを擁護している人たちは「正しい自分は差別なんかしないのに差別してると言われる」という心の傷をお互いになめ合っているように見えます。そんな自己弁護なんて真っ当な議論のきっかけになんてなり得ません。
私は、LGBTを個人的に受け入れられない人こそ、LGBTが社会的な不利益は受けないで欲しいと(LGBTに対する福祉の充実を)願うべきなんだと考えます。人は誰でも差別しているのだと自覚し、個人の差別を問うのではなく、個人の差別を社会に波及させない事が大切なのではないでしょうか。

多様性

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女性の役割と決めつけるのはおかしいとして、別にそういう役割を担う女性がいても、色んな家族の形があってその形を表現しても、良いと思うんだけど。自分らの決める女性の生き方の定義にハマらない女性の生き方を否定するなら、それって女性の生き方の多様性の否定でしょ?
差別だ多様性だって口うるさすぎる人たちって、自分たちの差別意識、多様性の否定に無自覚だったりするよね。そして、そういう矛盾って、(女性)差別的な価値観を持った理屈屋さんたちの自己正当化に一役買ってたりする。実際は、人権主義者の不寛容を指摘したところで、自身の不寛容が免罪されるわけではないんだけどね。

想定外と自己責任

原発事故や関空の水没を想定外の出来事だと擁護してる人たちがいるけど、そういう人たちに限って個人の想定外に対しては「自己責任」と冷たい人が多いような気がする。上から目線(経営者目線、行政側目線責任等)で考えずに、責任の重さというものを素直に責任の影響範囲で考えるなら、甘い方と厳しい方が逆だと思うんだけど。
個人の想定外に関して「愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ」(誤解の方の用法)だとかいう人がいるけど、関空の高潮の想定は少なくとも経験に学んだ部分があるし、原発事故の方は大津波の歴史に学べなかった部分ってあるよね。原発事故なんて愚かさを認めて反省する事もなく、歴史に学ばず経験に学ぶ姿勢のまま前に進めたがる人が多くて不思議だ。
いや、安全保障でもベストミックスでも資本主義でもなんでも良いけど、そういう絶対的な真実ではない個人的な価値観や感情に基づいて、原発は必要だと考えるのは自由だけど、そのバイアスくらいにはせめて気付いて、結論ありきの主張で公正公平合理主義を気取って他者を見下すのはやめて欲しいわ。

泊原発が動いていたら停電はなかったか。まあ停電の影響が極めて大きい人もいるから停電はなかった方がいいと思うけど、石狩低地東縁断層帯ではない深さ30-40kmにある未知の断層が引き起こした震度7地震から、私ならどこで震度7地震が起きてもおかしくないと学ぶけれど。そして原発事故は大地震や大津波といった他の甚大な自然災害を要因とした複合的な災害として生じる可能性があり、そうなった場合、自然災害からの復興を大きく妨げる、復興を極めて遅らせてしまうものだと言う事も学んだけれど。歴史からだけではなく経験からも学ぶつもりはないのかな。まあ原発の直下で起きる可能性は極めて低いとしても、どこでも起こりうるという否定できない可能性を見ない振りをして安全を強調する人たちというのは前提条件を都合良く設定して思考停止してしまってるようにしか見えないな。それって理系あるいは客観的合理的思考を自負する人間にとってもっとも恥ずべき事だと思うけど。

理屈が正しければ人の心をないがしろにして押し通して良いなんてことはない。それでも押し通そうとすればそれはハラスメントだし、エゴだ。理屈で自身のエゴを覆い隠し聞く耳を持とうとしない人間に、相手の不合理な心情だけをエゴと断じる資格なんてない。


蛇足。天皇陛下の退位、今上天皇を見ているか、天皇制という制度を見ているか、とかでも人の目線がどういう高さか推測する材料になるよね。あと話はずれるけど、AIが人類を滅ぼすと言うような人だと、人の心や不合理な部分を快く思ってない可能性も考えられる。自分のそういう価値観とAIの出す合理的な答えの(可能性の)中に、同一性を見いだしているというわけ。

長期休み明け

この時期になると、子どもの自殺を抑止しようというような記事を見かける。それは良いと思う。
でも「逃げていい」「学校に行かなくていい」「ひとりじゃない」と言われたり、個人的な(成功)体験談を語られたりしても困ってしまう子どももいるような気がする。
僕も子どもの頃には虐められていたから、子どもの頃に戻ったつもりで想像してみると、僕なら逃げ場所を教えて欲しいし、逃げてからどうするのかわからなくて不安だし、逃げたり学校に行かなかったりした時に直接親と対峙しなきゃいけないのは僕だ。現実は一人だ。もちろん自分と同じ様な人がいて、行動した人の言葉は力になる部分はあるけど、僕はその人とは違うし、具体的に過ぎてどうにも自分の事に当てはめて想像しにくい部分もある。
最後の部分について言えば、体験談より物語の方がしっくりくる。例えば、渡辺ぺこさんの漫画「ラウンダバウト」第3話(登校拒否してる女の子の話)なんかを読むと、綺麗事ばかりではない逃げる意味や目的、責任に触れられていて、物語に共感しながら自分の状況に当てはめて考えさせてくれる。
今の社会に沿うような(先生や友達や誰かによって解決されるような)結末に進まない、「逃げる事」「学校に行かない事」が受け入れられたまま進行していく物語や「逃げよう」「学校に行かないでおこう」と考えさせてくれるような物語がもっとあっていいと思うし(僕が知らないだけでたくさんあると思うけれど)、そういう物語と子どもとの接点を作ってあげる事も支援になるんじゃないかなと思う。

逃げ場所には図書館や動物園が手を挙げたりもしてくれているけれど、(ただでさえ忙しいし迷惑だと言われるかもしれないけど)僕は個人的には保育士がいる場所が良いと思う。保育士は文科省下の教師ではなく、厚労省下の児童福祉の専門家だから教師とは価値観が違う人も多いし(教師みたいな人もいるけど)、人を受容するのに長けている。児童は18歳未満という定義だから逃げたい子どもも十分に職務の範疇にある。守秘義務もあるのも大きい。その意味で、児童館や保育所等がもっと逃げ場所になって欲しいし、児童福祉としてこの問題に積極的に取り組んで良いと思う。馬鹿馬鹿しいと言われるかもしれないけど、変に家出をしてしまうくらいなら、児童養護施設なんかがプチ家出の受け皿になってもいいと思う。
また、子どもが逃げ場所、相談する場所としての人を選べていいと思う。だから、相談される人の見える化はもっとされてもいいと思う。子どもはSNSやブログなんかで価値観が見える化されている人に遠慮なく相談してもいいと思う。ただ、見知らぬもの同士、大人も子どもも自分を守れるシステムや、相談された大人が子どもを福祉と繋げられる窓口も必要だろうし、現状では色々問題があるとは思う。

僕は20歳過ぎてから立ち止まってから流される事を止めて、自分を見つめ直して、歩む道を変えたからやり直すのが大変だった。中学でも高校でも、逃げる事をきっかけにして、ゆっくりでも、本当に自分のやりたい事を探したり、見つけたりできるなら、早い時期にそういう機会が得られる事って羨ましいと思う。

アウティング(LGBT )

LGBTアウティング問題については納得いかない部分があります。
LGBT当事者が「社会にはLGBT差別が現にある」と認識し、LGBTという悩みを一人で抱え込み、周りにカミングアウトできない辛さを知っているのなら、自分がLGBTであるという事実をカミングアウトされた人に自分の秘密を抱え込ませる重みというのはわかるはずです。それが少数、特に一人ならなおさらです。さらに言えばアウティングが許されないなら、(LGBT当事者はカミングアウトに関して自己決定できるものですが)カミングアウトされた人はアウティングについて自己決定できません。
もう1つの疑問は、アウティングの結果、そのLGBT当事者が所属し関係性が緊密な小さな社会がLGBT当事者を受容した場合、アウティングは是なのか非なのかと言う事です。どのような場合も否なのでしょうか。その場合、LGBT差別がない社会でもLGBTに関するアウティングは非なのでしょうか。
アウティングという問題提起に関しては、社会の差別については見ない振りをして、目に付く個人の行動について画一的に糾弾する姿勢のように感じられてなりません。私はアウティング自体を悪とするのはどうなのかと思います。問題は、どのような目的を持って、或いは、どのような結果を予測してアウティングを行い、そのLGBT当事者にとって大切な社会において、どのような現象を引き起こしたのかと言う事ではないでしょうか。
アウティング自体に悪意が見いだされればそれは悪でしょう。アウティング自体はカミングアウトされた人が真剣に受け止め方に悩んだ結果として身近な誰かに相談したものであったけれど、それがLGBT当事者の属する社会に影響を及ぼしてしまった場合、アウティングした個人に責任を問うのではなく、その社会の差別性自体を問い、是正していくべきなのではないかと思います。もちろんどういう意識でアウティングを行ったかという区別は難しいとは思いますが。
受け止め方に悩んだ事自体が差別だという向きもあるでしょうが、私は人には色々な人がいていいと思っています。カミングアウトされた秘密の重みに耐えられないというのは「1つの個性」だと思いますし、同性愛という価値観を個人的に受け入れられないというのは「1つの価値観」だと思います。
ただ個人的に受け入れられないから社会でも受け入れないで欲しいと思って、そのような言動をすればそれは大いなる差別でしょう。同性婚は非生産的だから認めるべきではない等というのは酷い差別であると思います。しかし、LGBTを個人的には受け入れられないけど、LGBTが社会的な不利益は受けないで欲しい(例えば同性婚を異性婚を平等に扱う事に反対しない)というような価値観はありではないでしょうか。人は誰でも差別しているのだと自覚し、個人の差別を問うのではなく、個人の差別を社会に波及させない事が大切なのではないかと思います。もちろん「誰でも差別している」と言う事を差別の言い訳にして良いというわけではなく、だからこそ(個人の平等には限界があるからこそ)社会というシステムにおいて平等に扱う事を望んで欲しいと考えています。

暴力

尾木ママ、体操パワハラ問題で提言「暴力・体罰は一発退場 首にすべき」(スポーツ報知) - Yahoo!ニュース

「オリンピックパラリンピックありますが学校でも暴力・体罰は一発退場 首にすべきだと思います」

暴力はいけないと思うけど、何を暴力とすべきかというのは難しいと思うなあ。白と黒ではなく、オフホワイトからダークグレーまでグレーゾーンってのがあるでしょ。日馬富士の暴行傷害みたいな真っ黒を例に出す辺り、尾木ママの印象操作だよね。別れられないDV被害者みたいなのを引き合いに出してる人もいるけど、それも同様。明らかに黒の事例だけを引き合いに、身体に危害を加える行為から苦痛を加える行為まで、日常的なものから散発的なものまで、一緒くたにして、すべての暴力を黒にしようとしているように思える。スーパーで子どもに平手打ちをしてる母親を見たら、一発退場って事で警察にでも通報した方が良いって事なのだろうか?
僕の父親は母親に暴力を振るった事はないけど、気に入らない事があるとすぐに癇癪を起こして大声で怒鳴り散らす事はよくあった。父方の祖母はそんな父親と言い争いが出来ていたけど、母親は父親を恐れて、父親に対しては何も逆らえなかった。日常的に怒鳴るという事は、完全に暴力として機能する場合がある。グレーゾーンのない白黒論理で言えば、怒鳴る事自体が完全に暴力だと言えるだろう。さあ、これは一発退場で首にすべきなんだろうか。*1
ついでに(こんな事を書くとさらに怒られるかもしれないけど)、ハラスメントという問題は、もちろんハラスメントに対する耐性の弱い人が被害者にならないようにする事は重要だけど、ハラスメントというものに対する線引きまでハラスメントに対する耐性が弱い人を基準にするのはどうなんだろうか。人によって白にも黒にもなるグレーゾーンというものがあると思うし、その人によって異なる価値観を見極めるチャンスは与えられても良いと思う。特にそれが大人同士の関係性であるなら、当事者の意識・価値観とは無関係に、パワハラだ、セクハラだと認定して、糾弾するのはおかしく感じるし、それは自分が正しいと思うものだけを正しいものと認定し、正しくないものを完全排除しようとする狭量で人の多様性を認めない態度だと感じる。
もちろん黒だと感じる人がいる事は常に念頭に置かなければならないと思うし、黒だと主張されたら態度を改めるのはもちろんの事、黒だと主張されなくても態度や様子によってその事を見極められないといけないと思う。ただ本人が良くても傍からみて明らかに黒という線引きは存在するだろうし、能力不足で見極められない人が多いならやはり弱い方に線を寄るしかないのかもしれない。ちなみにイジメ色、支配色が強く端から相手の人となりを見極めるつもりがないものは論外だし、擁護する気もない。


僕はフィジカルが底辺の男だし、子どもと関わっているけど、子どもに叩かれる事はあっても、叩いた事も叩こうと思った事もないから、基本的には暴力がどこまで否定されても困らないし、むしろ否定されれば否定されるほど助かる部類の人間だと言う事は書いておこう。ただ白と黒ではっきりと分けてしまう世界が生き辛いというだけだ。
まあ暴力は否として、なんでも言えるを通り越して八つ当たりされる人間だからこそ、子どもが言い返せないような厳しい大人の存在もまた重要で必要なのだと感じるし、互いに補い合ってるとも感じている(むこうは嫌われ役で、こちらは好かれ役なのでなんか申し訳ない感じだけど)。大人と子どもの関係性を、指導者と生徒の関係性を、すぐにパワハラ認定しようとするのは狭量に過ぎるとも思う。大人の多少の不条理(押しつけ)については、生徒同士、或いは、保健室の先生的な話せる大人の存在によって解消されれば、それでいいんじゃないだろうか。


あ、蛇足だけど、もしかして、今の社会って白黒はっきりつけたがる類の発達障害の人が共感できる理屈が表に正論としてどんどん出てくるから、彼らにとっては生きやすくなってるんじゃないだろうか。表面的には。
(社会)心理学者さんや社会学者さんには、「発達障害とネットde真実」、「発達障害と保守・リベラルあるいは政治」みたいなテーマの研究をして欲しいなあ。発達障害の確率って5%以上って数字も見るし、それならそれなりに政治的な影響力を持ちうる(表面化していないだけですでに持っている可能性もある)と思うから、その思考の個性がどのような真実・政治的思想と結びつきやすいか、偏る傾向はないのかっていうのは一度研究しておいた方が良いと思うのよね。まあ単なる個人的なちょっとした懸念なんだけど(差別的かな?)。偏らない(色んな発達障害者がいる)って結論ならそれでいいし、それを求めてる。逆なら難しい事になるかもしれないけど。

*1:もっと言えば、少し声の大きい男性の少し乱暴な言葉遣いを怖がる女性というのにも出会った事がある。僕からしたら多少不機嫌さは感じるけど、普通にしゃべってる程度にしか感じられなかったんだけど。

合理的という事について色々

合理的に考えれば、頭が良く生まれ、現状その才能が発揮できているとすれば、それは運が良かったからだろう。遺伝や生育環境は完全に運だ。それに甘んじないで努力したと言われるかもしれないけど、その努力できる事だって生まれ持った才能(運)だし、努力できる、努力しようと思える環境で生育できた事も運だ。
この世にどう生まれるかは運だったという事をもっと突き詰めれば、自分はこの世界に存在しうるどんな人になる可能性もあった。性別が違ったかもしれないし、何かしら病気や障害を抱える事になったかもしれないし、LGBTであったかもしれないし、機能不全家族に産まれたかもしれない。生まれる国が違う可能性だって大いにあった。誰かを切り捨てるという事は自分の別の可能性としての誰かの人生を切り捨てるという事だ。別の遺伝や環境で生まれ、別のアイデンティティを持つに至った誰か(自分の別の可能性)の人生を見て、自分は頭が良い、理性的だと思っている人たちは「自分だったらああしない、こうする」「彼らと私は違う」と評論するけれど、それは単純に現在の自分のアイデンティティのまま、誰かと立場だけを入れ替えて思考しているだけであって、主観的でご都合主義なものだ。彼らがすぐに否定したがるような他者の思考形態を自分たちもまたしているという事実に気付いていない。当然ながらそのような考えは、他者のアイデンティティを否定し、切り捨てる理由にもならないけれど、その事に気付く事もできない。
そもそも論理的思考ができる事を誇り、感情的に思考する人を見下すという行為自体も、単に運の良さを誇るという非論理的言動に過ぎない。それにいったい何の意味があるのだろう。仮に自尊心や承認欲求を満たす行為なら、それは合理的でもなんでも無い、感情的な欲求に突き動かされた結果の行為だ。その自己矛盾に気付かないのだろうか。

論理的思考を誇っている人でも、いくつもの欲求やバイアスという非論理的なものに支配されている。その事に無自覚な論理的思考なんて脆弱なものだし、その事に無自覚なまま自分の論理が正しいと信じる続けるなら、その理屈は無理に無理を重ねた歪なものになっていく。しかしその部分をいくら指摘しても彼らは自分の論理が心の影響を受けている事を理解してくれないし、自分の論理の歪さに気がつく事も無くその論理に安住し続ける。


先制攻撃したがる人とか核武装したがる人とかがいる。彼らは対外的な脅威を考えれば、それが合理的な解だと思っている。でも、それは「脅威を排除すべき」とか「脅威には脅威」とか、そういう狭い視点からのみ導かれた偏った合理性だと思う。自分が加害者や被害者になる視点が都合が良く見逃されている。だから戦いは避けられるなら避けた方が良いのだという視点が欠如している。
彼らは、自分とは意見を異にする反戦の考えを、非現実的で、感情に支配された非論理的なもののように言うが、彼らの方が、恐怖という感情に操られ、その恐怖をすぐに取り除けそうな安易な答えに飛びついているように見える。彼らは自分の価値観や主張の土台の部分を「当たり前」のものとして、見直そう、考え直そうとしないから、自分の考えもまた感情やバイアスが含まれている主観的なものなのだと気付く事ができない。論理でもなんでも無く経験や歴史から「戦争をしてはいけない」という所から理屈を積み上げていっても良いし、核兵器を絶対悪という位置に置くところから合理性を積み上げていっても良い事に気付く事ができない。その方がよほど恐怖という感情をコントロールしなければならない考えであって、自分たちの方が感情的なのだと気付く事ができない。


低線量被曝のリスクが限りなく低いとして、仮にその影響を受けるのが100万人オーダーだとして、そのリスクをないものとして自分の行動を決める事は合理的と言えるだろう。リスクをそう説明するのも合理的だろう。しかし人が自分の言葉に耳を傾けずにリスクを受け入れないからといって、レッテル張りをしたり馬鹿と罵ったりする事は合理的では無い。それは自分の言葉を伝える事を諦める行為だし、相手が自分の言葉を信じる機会を奪う行為、自分と相手を分断する行為だし、どこからどう見ても感情に任せた行為だ。
またリスクをゼロと誤認させるようなレトリックを使う行為については合理的なものだとは思わない。仮にそれが合理的だとするなら、それは行政の側に寄ったものだろう。自分を頭が良いと思っている人たちにおける多数派は、自分たちの生活者としての視点を忘れ、行政側の視点を優先して論理を組み立てて、公平を装う傾向があるように思える。僕にはそれが自分で首輪をはめてる奴隷みたいに見えるけど。
その100万人オーダーの低リスクって真実は、その真実を受け入れない人を馬鹿にできるほど、真実だと他者に強制できるほどの絶対的真実なんだろうか。少なくとも100万人オーダーでもリスクが0でないなら、ハズレクジを誰かが引く可能性はあって、そのハズレクジを引いた人にとってその低リスクは真実では無い。有意差として出ないなら誰も気付く事はできないだろう。しかし絶対的真実ではないものを絶対的真実のように振る舞う人間を、僕は合理的だとは思わないし、科学や真実に対して誠実だとも思わない。
加えて言えば、ゼロリスクを求めるのは非現実的な態度だろうが、その説得を諦めて、リスクをゼロと誤認させるようなレトリックを使い、その事によってリスクが顕現化した時に、自分の言葉を誤認した人たちをゼロリスク信仰だと切り捨てる態度もどうなのだろう。合理的に考えれば、ゼロリスク信仰だけが悪いのでは無く、ゼロリスクを説いた人間、ゼロリスク信仰を広めた人間も悪いという事になるだろう。そして、それを説いた人間というのは、行政や科学の側の人間だし、その理由も合理性からではなく、心が易きに流れた結果だ。
科学だ論理だと良いながら、人を説得する為に非科学的、非論理的な過剰な数字を設定してしまった自身の心の弱さには気付く事もできず、反省もできない。そしてゼロリスク信仰などと相手を非難する理屈をひねり出し、その信仰を生んだ自分自身を棚に上げてる事に気付かない。傍から見れば、非合理的な感情的な態度にしか見えない。


差別を理屈で正当化しようとする人たちがいる。自分の理屈は合理的だと思っている。でも、そういう人たちは差別している対象への嫌悪感とか悪感情とか、そのような先立つものがあり、その感情を正当化する為に理屈を捏ねている事に気付いていない。(彼らなりの)合理的理由が先にあって差別しているわけでは無くて、差別する(受け入れられない)理由を後付けで探しているのだ。
LGBT……同性婚を例にする。重婚や近親婚、未成年者との婚姻などが認められていないのに、同性婚が認められるなんておかしいという人たちがいる。彼らの多くは、同性婚が認められるなら、重婚や近親婚、未成年者などとの婚姻を認めて欲しいという社会運動をしようとしない。彼らとしては、それらを「忌まわしき」婚姻として同じものとして括り否定しようとしているだけなのだ。さらに重婚や近親婚は子どもができる点で同性婚より生産的だなどと言う。「忌まわしい」同性婚は、「忌まわしい」そして社会に承認される事で無いであろう重婚や近親婚より下の存在なのだという理屈なのだろう。
しかし、それが、同性婚と重婚や近親婚等を、同じカテゴリーに入れている人たちの間でしか通じない、極めて主観的な理屈だと気付いていない。そのカテゴライズの正当性を疑う事ができない。今はそのようなカテゴライズを社会と共有できないという事実が認められない。今の社会では、そのような理屈を振り回すのは合理的な態度ではない事や、同性婚を「忌まわしき」婚姻の1つとして嫌悪しているという(非論理的な)感情の単なる表明に過ぎない事に気付かずに、自分は合理的で論理的思考もできる人間だと信じて疑わない。
杉田水脈氏の、LGBTが子どもを産めない事と生産性を結びつけたり、LGBTアイデンティティではないのだと否定したりしているのもきっと後付けなのだろう。僕には自分が否定したいものを自分の都合の良いように理解しているようにしか見えない。本気でLGBTへの支援が度を過ぎていると考えて、それを訴えたいと思ったとしたなら、なぜ自分のその考えが正しいのかまず検証しようとしないのだろう。LGBTの事を知ろうとしないのだろう。LGBT当事者から学ぼうとせずに、自身の狭い経験から女子校の疑似恋愛になぞらえてLGBTを理解したつもりになって、その前提で論を展開する。その論のどこに合理性があるのだろうか。また、どうして杉田水脈氏の身近にもいるはずの、子どもを産めない人や子どもを産まない人に対しても、生産性がない云々という理屈が当てはまる事に考えが至らないのだろう。いや、きっとLGBTとそのような人たちを分かつ彼女なりの理屈(同性愛は疑似恋愛等)があるのだろう。
繰り返しになるけど、杉田水脈氏の言葉は、LGBTに対する否定的な感情・バイアスが先行している感が否めないように見える。
まあ差別については僕も自戒しなければいけない部分はある。


合理や論理を追及する人たちの中には、人の感情や曖昧さを嫌う人たちがいる。彼らは、社会において、合理や論理というのが一意に決まるものでは無いという事に気付かない。だから、みんなが、合理や論理を追及していけば、人々が分断され、自分たちもまた淘汰の対象になるという事にも気付かない。自分たちが、人の感情(共感と寛容)や曖昧さ、ダブルスタンダード、といった非論理的な部分に救われている部分も多々あるのだという事に気付かない。


合理や論理を追及する人たちの中には、AIの出した答えに感情移入しているかのように振る舞う人たちがいる。自分たちはAIのように論理的なつもりかもしれないけど、感情やAI贔屓のバイアスが一目瞭然なので滑稽に過ぎる。彼らは、AI(コンピュータ)に人間性がない事からといって、AI(コンピュータ)を使う人間まで人間性を無くしてはいけないという事がわからない。


ああ纏まらない。何が言いたいかというと、1つは、理屈人間は、自分の理屈を通したいという自身の欲求に支配されて、寛容性、柔軟性を喪失している事に気付けって事。
もう1つは、差別を正当化しようとする理屈に対して、その理屈はおかしいと指摘するのは大切な事だと思うけど、差別を正当化しようとする行為自体に対して、心理学的にその人の差別心やバイアスの存在を明らかにする(理屈は後付けだと明らかにする)事も必要だと思うって事。その人を非難する為では無くて、誰でも差別心やバイアスを持ってるという自覚を促す教材とする為に。
差別と戦うには、まず自分の中の差別心とバイアスを理解する事だと思ってるから。それでも結局、心や感情のある人間である一個人の中から完全に差別心やバイアスを消すのは不可能だと思うから、社会に差別対策を求めるしか無いと思ってる。