アファーマティブ・アクション

アファーマティブ・アクションに対して拒否感を示す人は、過去の社会が差別的であったからこそ現在受けられている恩恵というものの存在に対して鈍感なのか、または見ない振りをしているのだと思う。
例えば、女性と男性は知的能力において対等であるにも関わらず機械や数学が苦手というステレオタイプの存在が、その方面への女性の社会進出を阻んだのであれば、その方面にいる男性は本来もっとあったはずの競争に晒される事もなく、その能力より高い地位、賃金を得られている可能性が高い*1
このようなステレオタイプは社会が男女平等を進めたからといって、すぐに駆逐されるものではないし、そのステレオタイプの影響を受けて育てられた女性というのは徐々に減って行くにしても、完全にいなくなるには少なくない時間がかかるだろう。という事は、今現在でも男性はそのステレオタイプによって恩恵を受けているし、これからもしばらくは受け続けられるという事になる。
その事実が何かしらの理由で見えていないから、それを是正するには積極的な対策が必要だという事が理解できず、それを悪平等だの逆差別だと主張したりする。

しかし、そういうステレオタイプがない社会であったとして、女性は男性と同じだけ科学、工学の道を進むのかという事に関して、個人的には少し疑問もある。知的能力自体には差がないとしても、得意不得意、興味無関心の傾向に差がある可能性はあるし*2、男性と同じだけ女性が科学、工学の道に進める(進まされる)のが女性にとって絶対的な利益になるのかはわからないと思う。もちろん科学や工学の才能に恵まれ、そちら方面への興味も強い女性がステレオタイプによって潰される社会であってはならないのは大前提として。男女の性差を認めつつ、かといってそれをステレオタイプ化せず、色々な男性、女性がいるという中で男女平等というものを追及し、アクションを取って行く方が良いのではないかという思いもある。

全然関係ないけど、言葉遣いの悪い女性に対して、女のくせに……というのが差別なら、そんな口汚く暴力的に相手を罵っても免責される権利なんてむしろ女性に差し上げたい。そんな権利を男が持つ男社会なんて僕にとっては生き辛いだけだし「男のくせに言葉遣い酷すぎ」と言われる男社会の方がよほど生きやすい。

*1:職場に女性が少ないというのは、男性にとって出会いという点ではデメリットでも、職に関する競争については大きなメリットだろう

*2:例えば自閉症スペクトラムの男女比がある事から

新潮45と杉田水脈氏

前に書いた事の焼き直し。

私は個人の心の中に差別があるのはしかたないと思います。
家族を優先するのだって突き詰めれば差別でしょう。しかし、多くの人には家族があり、家族に恵まれない人には社会福祉がある。そういう社会であれば(それでも特定の場面に限って)家族の内集団ひいきは差別ではなくなるのだと思います。だから私は、個人の中の差別を責めるのは(自分を客観的に見られない人とか自分を都合良く棚の上に上げられる人とか以外には)生き辛い世の中になると思っています。
もちろん個人的に受け入れられないから社会でも受け入れないで欲しいと考え、そのような言動を行うのは大いなる差別だと思います。同性愛は非生産的だから認めるべきではない等と主張するのは酷い差別であると思います。人の価値をすべてを生産性で語るならまあ一貫性もあるでしょうが(これはこれでめちゃくちゃ問題がありますけれど)、語るものと語らないものがある時点で、とってつけた差別心に対する自己弁護に過ぎないように感じられます。そして、それを擁護している人たちは「正しい自分は差別なんかしないのに差別してると言われる」という心の傷をお互いになめ合っているように見えます。そんな自己弁護なんて真っ当な議論のきっかけになんてなり得ません。
私は、LGBTを個人的に受け入れられない人こそ、LGBTが社会的な不利益は受けないで欲しいと(LGBTに対する福祉の充実を)願うべきなんだと考えます。そして、差別と戦うとする人たちは、差別的な考えを敵や悪とみなして、人の内面まで踏み込んで叩き潰そうというような個人の差別と戦おうとするのではなく、人は誰でも差別しているのだと自覚し、個人の差別を社会に波及させないように戦う事こそ大切なのだと思います。

多様性

headlines.yahoo.co.jp
女性の役割と決めつけるのはおかしいとして、別にそういう役割を担う女性がいても、色んな家族の形があってその形を表現しても、良いと思うんだけど。自分らの決める女性の生き方の定義にハマらない女性の生き方を否定するなら、それって女性の生き方の多様性の否定でしょ?
差別だ多様性だって口うるさすぎる人たちって、自分たちの差別意識、多様性の否定に無自覚だったりするよね。そして、そういう矛盾って、(女性)差別的な価値観を持った理屈屋さんたちの自己正当化に一役買ってたりする。実際は、人権主義者の不寛容を指摘したところで、自身の不寛容が免罪されるわけではないんだけどね。

想定外と自己責任

原発事故や関空の水没を想定外の出来事だと擁護してる人たちがいるけど、そういう人たちに限って個人の想定外に対しては「自己責任」と冷たい人が多いような気がする。上から目線(経営者目線、行政側目線責任等)で考えずに、責任の重さというものを素直に責任の影響範囲で考えるなら、甘い方と厳しい方が逆だと思うんだけど。
個人の想定外に関して「愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ」(誤解の方の用法)だとかいう人がいるけど、関空の高潮の想定は少なくとも経験に学んだ部分があるし、原発事故の方は大津波の歴史に学べなかった部分ってあるよね。原発事故なんて愚かさを認めて反省する事もなく、歴史に学ばず経験に学ぶ姿勢のまま前に進めたがる人が多くて不思議だ。
いや、安全保障でもベストミックスでも資本主義でもなんでも良いけど、そういう絶対的な真実ではない個人的な価値観や感情に基づいて、原発は必要だと考えるのは自由だけど、そのバイアスくらいにはせめて気付いて、結論ありきの主張で公正公平合理主義を気取って他者を見下すのはやめて欲しいわ。

泊原発が動いていたら停電はなかったか。まあ停電の影響が極めて大きい人もいるから停電はなかった方がいいと思うけど、石狩低地東縁断層帯ではない深さ30-40kmにある未知の断層が引き起こした震度7地震から、私ならどこで震度7地震が起きてもおかしくないと学ぶけれど。そして原発事故は大地震や大津波といった他の甚大な自然災害を要因とした複合的な災害として生じる可能性があり、そうなった場合、自然災害からの復興を大きく妨げる、復興を極めて遅らせてしまうものだと言う事も学んだけれど。歴史からだけではなく経験からも学ぶつもりはないのかな。まあ原発の直下で起きる可能性は極めて低いとしても、どこでも起こりうるという否定できない可能性を見ない振りをして安全を強調する人たちというのは前提条件を都合良く設定して思考停止してしまってるようにしか見えないな。それって理系あるいは客観的合理的思考を自負する人間にとってもっとも恥ずべき事だと思うけど。

理屈が正しければ人の心をないがしろにして押し通して良いなんてことはない。それでも押し通そうとすればそれはハラスメントだし、エゴだ。理屈で自身のエゴを覆い隠し聞く耳を持とうとしない人間に、相手の不合理な心情だけをエゴと断じる資格なんてない。


蛇足。天皇陛下の退位、今上天皇を見ているか、天皇制という制度を見ているか、とかでも人の目線がどういう高さか推測する材料になるよね。あと話はずれるけど、AIが人類を滅ぼすと言うような人だと、人の心や不合理な部分を快く思ってない可能性も考えられる。自分のそういう価値観とAIの出す合理的な答えの(可能性の)中に、同一性を見いだしているというわけ。

長期休み明け

この時期になると、子どもの自殺を抑止しようというような記事を見かける。それは良いと思う。
でも「逃げていい」「学校に行かなくていい」「ひとりじゃない」と言われたり、個人的な(成功)体験談を語られたりしても困ってしまう子どももいるような気がする。
僕も子どもの頃には虐められていたから、子どもの頃に戻ったつもりで想像してみると、僕なら逃げ場所を教えて欲しいし、逃げてからどうするのかわからなくて不安だし、逃げたり学校に行かなかったりした時に直接親と対峙しなきゃいけないのは僕だ。現実は一人だ。もちろん自分と同じ様な人がいて、行動した人の言葉は力になる部分はあるけど、僕はその人とは違うし、具体的に過ぎてどうにも自分の事に当てはめて想像しにくい部分もある。
最後の部分について言えば、体験談より物語の方がしっくりくる。例えば、渡辺ぺこさんの漫画「ラウンダバウト」第3話(登校拒否してる女の子の話)なんかを読むと、綺麗事ばかりではない逃げる意味や目的、責任に触れられていて、物語に共感しながら自分の状況に当てはめて考えさせてくれる。
今の社会に沿うような(先生や友達や誰かによって解決されるような)結末に進まない、「逃げる事」「学校に行かない事」が受け入れられたまま進行していく物語や「逃げよう」「学校に行かないでおこう」と考えさせてくれるような物語がもっとあっていいと思うし(僕が知らないだけでたくさんあると思うけれど)、そういう物語と子どもとの接点を作ってあげる事も支援になるんじゃないかなと思う。

逃げ場所には図書館や動物園が手を挙げたりもしてくれているけれど、(ただでさえ忙しいし迷惑だと言われるかもしれないけど)僕は個人的には保育士がいる場所が良いと思う。保育士は文科省下の教師ではなく、厚労省下の児童福祉の専門家だから教師とは価値観が違う人も多いし(教師みたいな人もいるけど)、人を受容するのに長けている。児童は18歳未満という定義だから逃げたい子どもも十分に職務の範疇にある。守秘義務もあるのも大きい。その意味で、児童館や保育所等がもっと逃げ場所になって欲しいし、児童福祉としてこの問題に積極的に取り組んで良いと思う。馬鹿馬鹿しいと言われるかもしれないけど、変に家出をしてしまうくらいなら、児童養護施設なんかがプチ家出の受け皿になってもいいと思う。
また、子どもが逃げ場所、相談する場所としての人を選べていいと思う。だから、相談される人の見える化はもっとされてもいいと思う。子どもはSNSやブログなんかで価値観が見える化されている人に遠慮なく相談してもいいと思う。ただ、見知らぬもの同士、大人も子どもも自分を守れるシステムや、相談された大人が子どもを福祉と繋げられる窓口も必要だろうし、現状では色々問題があるとは思う。

僕は20歳過ぎてから立ち止まってから流される事を止めて、自分を見つめ直して、歩む道を変えたからやり直すのが大変だった。中学でも高校でも、逃げる事をきっかけにして、ゆっくりでも、本当に自分のやりたい事を探したり、見つけたりできるなら、早い時期にそういう機会が得られる事って羨ましいと思う。

アウティング(LGBT )

LGBTアウティング問題については納得いかない部分があります。
LGBT当事者が「社会にはLGBT差別が現にある」と認識し、LGBTという悩みを一人で抱え込み、周りにカミングアウトできない辛さを知っているのなら、自分がLGBTであるという事実をカミングアウトされた人に自分の秘密を抱え込ませる重みというのはわかるはずです。それが少数、特に一人ならなおさらです。さらに言えばアウティングが許されないなら、(LGBT当事者はカミングアウトに関して自己決定できるものですが)カミングアウトされた人はアウティングについて自己決定できません。
もう1つの疑問は、アウティングの結果、そのLGBT当事者が所属し関係性が緊密な小さな社会がLGBT当事者を受容した場合、アウティングは是なのか非なのかと言う事です。どのような場合も否なのでしょうか。その場合、LGBT差別がない社会でもLGBTに関するアウティングは非なのでしょうか。
アウティングという問題提起に関しては、社会の差別については見ない振りをして、目に付く個人の行動について画一的に糾弾する姿勢のように感じられてなりません。私はアウティング自体を悪とするのはどうなのかと思います。問題は、どのような目的を持って、或いは、どのような結果を予測してアウティングを行い、そのLGBT当事者にとって大切な社会において、どのような現象を引き起こしたのかと言う事ではないでしょうか。
アウティング自体に悪意が見いだされればそれは悪でしょう。アウティング自体はカミングアウトされた人が真剣に受け止め方に悩んだ結果として身近な誰かに相談したものであったけれど、それがLGBT当事者の属する社会に影響を及ぼしてしまった場合、アウティングした個人に責任を問うのではなく、その社会の差別性自体を問い、是正していくべきなのではないかと思います。もちろんどういう意識でアウティングを行ったかという区別は難しいとは思いますが。
受け止め方に悩んだ事自体が差別だという向きもあるでしょうが、私は人には色々な人がいていいと思っています。カミングアウトされた秘密の重みに耐えられないというのは「1つの個性」だと思いますし、同性愛という価値観を個人的に受け入れられないというのは「1つの価値観」だと思います。
ただ個人的に受け入れられないから社会でも受け入れないで欲しいと思って、そのような言動をすればそれは大いなる差別でしょう。同性婚は非生産的だから認めるべきではない等というのは酷い差別であると思います。しかし、LGBTを個人的には受け入れられないけど、LGBTが社会的な不利益は受けないで欲しい(例えば同性婚を異性婚を平等に扱う事に反対しない)というような価値観はありではないでしょうか。人は誰でも差別しているのだと自覚し、個人の差別を問うのではなく、個人の差別を社会に波及させない事が大切なのではないかと思います。もちろん「誰でも差別している」と言う事を差別の言い訳にして良いというわけではなく、だからこそ(個人の平等には限界があるからこそ)社会というシステムにおいて平等に扱う事を望んで欲しいと考えています。

暴力

尾木ママ、体操パワハラ問題で提言「暴力・体罰は一発退場 首にすべき」(スポーツ報知) - Yahoo!ニュース

「オリンピックパラリンピックありますが学校でも暴力・体罰は一発退場 首にすべきだと思います」

暴力はいけないと思うけど、何を暴力とすべきかというのは難しいと思うなあ。白と黒ではなく、オフホワイトからダークグレーまでグレーゾーンってのがあるでしょ。日馬富士の暴行傷害みたいな真っ黒を例に出す辺り、尾木ママの印象操作だよね。別れられないDV被害者みたいなのを引き合いに出してる人もいるけど、それも同様。明らかに黒の事例だけを引き合いに、身体に危害を加える行為から苦痛を加える行為まで、日常的なものから散発的なものまで、一緒くたにして、すべての暴力を黒にしようとしているように思える。スーパーで子どもに平手打ちをしてる母親を見たら、一発退場って事で警察にでも通報した方が良いって事なのだろうか?
僕の父親は母親に暴力を振るった事はないけど、気に入らない事があるとすぐに癇癪を起こして大声で怒鳴り散らす事はよくあった。父方の祖母はそんな父親と言い争いが出来ていたけど、母親は父親を恐れて、父親に対しては何も逆らえなかった。日常的に怒鳴るという事は、完全に暴力として機能する場合がある。グレーゾーンのない白黒論理で言えば、怒鳴る事自体が完全に暴力だと言えるだろう。さあ、これは一発退場で首にすべきなんだろうか。*1
ついでに(こんな事を書くとさらに怒られるかもしれないけど)、ハラスメントという問題は、もちろんハラスメントに対する耐性の弱い人が被害者にならないようにする事は重要だけど、ハラスメントというものに対する線引きまでハラスメントに対する耐性が弱い人を基準にするのはどうなんだろうか。人によって白にも黒にもなるグレーゾーンというものがあると思うし、その人によって異なる価値観を見極めるチャンスは与えられても良いと思う。特にそれが大人同士の関係性であるなら、当事者の意識・価値観とは無関係に、パワハラだ、セクハラだと認定して、糾弾するのはおかしく感じるし、それは自分が正しいと思うものだけを正しいものと認定し、正しくないものを完全排除しようとする狭量で人の多様性を認めない態度だと感じる。
もちろん黒だと感じる人がいる事は常に念頭に置かなければならないと思うし、黒だと主張されたら態度を改めるのはもちろんの事、黒だと主張されなくても態度や様子によってその事を見極められないといけないと思う。ただ本人が良くても傍からみて明らかに黒という線引きは存在するだろうし、能力不足で見極められない人が多いならやはり弱い方に線を寄るしかないのかもしれない。ちなみにイジメ色、支配色が強く端から相手の人となりを見極めるつもりがないものは論外だし、擁護する気もない。


僕はフィジカルが底辺の男だし、子どもと関わっているけど、子どもに叩かれる事はあっても、叩いた事も叩こうと思った事もないから、基本的には暴力がどこまで否定されても困らないし、むしろ否定されれば否定されるほど助かる部類の人間だと言う事は書いておこう。ただ白と黒ではっきりと分けてしまう世界が生き辛いというだけだ。
まあ暴力は否として、なんでも言えるを通り越して八つ当たりされる人間だからこそ、子どもが言い返せないような厳しい大人の存在もまた重要で必要なのだと感じるし、互いに補い合ってるとも感じている(むこうは嫌われ役で、こちらは好かれ役なのでなんか申し訳ない感じだけど)。大人と子どもの関係性を、指導者と生徒の関係性を、すぐにパワハラ認定しようとするのは狭量に過ぎるとも思う。大人の多少の不条理(押しつけ)については、生徒同士、或いは、保健室の先生的な話せる大人の存在によって解消されれば、それでいいんじゃないだろうか。


あ、蛇足だけど、もしかして、今の社会って白黒はっきりつけたがる類の発達障害の人が共感できる理屈が表に正論としてどんどん出てくるから、彼らにとっては生きやすくなってるんじゃないだろうか。表面的には。
(社会)心理学者さんや社会学者さんには、「発達障害とネットde真実」、「発達障害と保守・リベラルあるいは政治」みたいなテーマの研究をして欲しいなあ。発達障害の確率って5%以上って数字も見るし、それならそれなりに政治的な影響力を持ちうる(表面化していないだけですでに持っている可能性もある)と思うから、その思考の個性がどのような真実・政治的思想と結びつきやすいか、偏る傾向はないのかっていうのは一度研究しておいた方が良いと思うのよね。まあ単なる個人的なちょっとした懸念なんだけど(差別的かな?)。偏らない(色んな発達障害者がいる)って結論ならそれでいいし、それを求めてる。逆なら難しい事になるかもしれないけど。

*1:もっと言えば、少し声の大きい男性の少し乱暴な言葉遣いを怖がる女性というのにも出会った事がある。僕からしたら多少不機嫌さは感じるけど、普通にしゃべってる程度にしか感じられなかったんだけど。