大人の発達障害に関する雑感

この文章は多分に発達障害者への誤解や偏見が含まれているかもしれない。差別だなんだと言って表現を表に出さないようにする行為ってただ差別を個人の中に押し込めているだけじゃないだろうか。そこで、発達障害の問題について考えている人に対し、何がどのように誤解や偏見を生むのかと言ったヒントになればと思い、私がどのように考えているのかを敢えて率直に表現してみる事にした。差別主義者だと言われる事は怖いけれど、完璧な人間ではないのだからしかたない。それにまあ、私はその辺の人たちより発達障害者に対して優しくできるだろう自信はあるし、発達障害について知る事、知識の足りなさ過ちを指摘される事によって自分の内面を、あるいは生理的なものを克服できなかったとしても、社会に対して表現する部分については修正できると思っている。
大人の発達障害者は、学校時代クラスメイトや教師に、理解できない事に対して同意や共感を求められたりして苦しむのだそうだ。まだまだ発達障害の人には生きづらい世の中なのかもしれないけど、今ではきっと発達障害者の仲間が表現したものがたくさんあって、理解者も大勢いて、自分がなぜ学生時代に苦しんだのか理解できるようになって、また、そうやって自分たちの苦しみを表現してるんだと思う。
でも、そういう発達障害者の話をよくよく読んでみると、発達障害者は同じ障害を持つ仲間の声はともかくとして、多数派の中にいる自分たちの理解者の声を誤解しているのじゃないかと感じる時がある。理解者は、社会より発達障害者の考え方の方が正しいという事に理解を示しているのではなくて、発達障害者が他者と違う事で苦しんだという苦しみに共感して、その苦しみに理解を示しているのだと思うけれど、発達障害者は前者のように捉えてる人も多いような気がするのだ。自分たちが固執するものに固執することもまた他者への価値観の押しつけなのに、社会の多数派の側が間違いで自分たちは正しいのだから押しつけではない(大げさに言えば啓蒙なのだ)と思ってるような節がある。
発達障害者を理解できる人というのは、多感な人なのだと私は想像する。子供の時代、普通や常識といったものを素直に受け入れず、疑って考えて疑って考えて、自分なりの答えを見つけ出そうと人たち。発達障害者と同じように既存の社会に疑問を抱いた人たち。違いがあるとすれば、自分が共感できる人や社会の在り方という答えやその手がかりを見つけ出し、知識ではなく心の部分で、人や社会との繋がりを再発見できるか否かなんじゃないかなと思う。
一方、発達障害者はルールに固執する。それはある意味で科学や法に感情移入していると言ってもいいだろう。発達障害者の主観的な正しさは、科学的事実や法の字義原理を土台とし、人間性を喪失していく。大げさのように思われるかもしれないけど、共感という理解できないものを、真実に基づいた行為を阻害する要因と見なしている人はいる。それは結果的に多様性を喪失してしまうような方向であって自分の居場所さえ危うくなるのだけど、発達障害者は気にしない。人としての欲求や生活の主体者であるという事をどこかで軽視している。もしかするとその必要性を自覚していないのかもしれない。自分たちが科学や法に共感と呼べる感情を持っている事に気付いてくれれば良いのだけど、それは客観的真実を求める行為と主観的真実を求める行為を分離しにくくもあるし、自己の客観視が難しい人に自覚するのは難しくはあるだろう。
主観を疑い社会の多様性の中に自分たちの場所を見いだした人たちと主観的なルールを求め多様性を喪失するような方向に社会を求める人たち。既存の社会に対する適応に苦しむ同士でありながら、実は対極に位置している部分もある。
もう1つ、発達障害者の人が、社会の中で他人に合わせて演技をすることを学び、本心とは違う演技をしているのだと、それがまるで発達障害者の特質であるかのようにいう人を見かけたことがある。発達障害でない人間であっても、いつもも共感してるわけではなく、むしろストレスを感じながら演技をしていることの方が多い。発達障害者のように、意味もわからないまま、上の側の価値観を強制されている事だってままある。その事がわかっているのだろうか?と思う。違うのはストレスの感じる場面の量と感じる強さだろう。例えば、発達障害ではないものは、2つのルールがあって、ある場面では片側のルールに従い、別の場面ではもう1方のルールに従うと言った事それ自体にはストレスを感じにくい。ルールを守ること自体にさほど固執しないし、守らない必然性が理解できる場合も多い。
以上、多様性のある社会という中に発達障害という個性を見ている人たちは、発達障害の認め方を改める必要があるんじゃないだろうか。少なくとも、「彼らを認める事」と「彼らの考えを認める事」は違うという事、彼らの主張を正当なものとして上に見ているのではなく、多様性の中に1つの考え方として見ているのだという事を伝えていく必要があるんじゃないだろうか。そうしないと歩み寄りどころか「正しい自分」と「愚かなマス」という認識から分断が進んでしまう可能性もあると思う。
幼児、児童教育においても、発達障害の子供を認め、共感してあげることは大切だろう。でも、何に共感しているのか、その共感をどのように位置づけているのか(真実への共感ではなく、多様性の中における1つの考え方としての共感)を示してあげることが大事なんじゃないだろうか。

追記
例えば長谷川豊の「糖尿病~」発言や小泉進次郎の健康ゴールド免許と言った提言から社会情勢を考えると、個人の自由の範疇で有るはずの生きる快楽の追求がモラル(ルール)化されて制限されようとしていると言えるのかもしれない。前者は当然の事ながら大きな反感を買ったけど、後者には妥当性を感じた人も多いんじゃないだろうか。本来人間の生や多様性の中に有るようものを、そんな風にモラル(ルール)化し、モラル(ルール)を守ることを報酬を持って奨励し反対に逸脱を自己責任化して切り捨てようとする社会って、或いは人間性を無視し科学や論理の正しさをごり押しする社会って、意外と発達障害者にはわかりやすい、発達障害者向けの社会なんじゃないだろうか。
もちろん科学や論理を重視するのは大切なことだろう。でも、それだけじゃない。発達障害者を個性と認めたのは、科学や論理ではなく、その「それだけじゃない部分」なんだって伝えていかなければならないと思う。最後に改めて。

更に追記
まあ以上は、発達障害に限らず自身の主観性に無自覚な頭が良い人全般に言えることでもあるんだけれど。

どのレベルに物事を分解するのかという抽象化に関する個性は教育に活かせるのではないか(妄想)

 通常「この教科の学習要領はこれ」と1つのラインが決まっているものだが、物事を抽象化する能力という特性によって、それを3つ以上のラインに分けられるのではないかと考えている。
人がどのように世界を抽象化・階層化して認識し、どの部分に焦点を当てるのか。それは教科の得手不得手とは別のベクトルで、人の個性や知的活動における適性を考える上で、重要な要素なのではないかと思っている。それをカリキュラムに導入したらいいのではないかと思うようになった。ちなみに物事を抽象化する能力が高ければ高いほど頭が良いとは考えていない。
例えば、歴史の学ぶ視点についておおざっぱに考えてみる。
まず歴史小説のように歴史上の人物個々にまで焦点を当てながら、歴史上の事件を理解しようとするのがミクロで具体的な方法。
次に歴史上の事件の時間軸やそれにどの人物がどう関わったのかといった点から歴史の流れを理解しようとする方法。
最後に歴史上の事件を抽象化し、何が他の事件と共通していて、何がある事件に固有のものなのかといった見地から歴史の教訓的意味を探ろうという大局的で抽象的な方法。
どれが歴史の正しい学び方というのではない。どの階層で物事を理解するのを好むのかという個性に焦点を当てて複数のカリキュラムを用意できるのではないか、(AIを利用する事で)その抽象化度合いの異なる複数のカリキュラムや複数の教科を柔軟に横断しつつ学習を進められる方法があるのではないかと思うのだ。
では、それをどのように幼児(児童)教育において測定するのか。私は、それに絵画が有効なのではないかと思う。
リアルを追求した細密描写の絵と細部が大胆に省略されたデザイン的な絵と何が描かれているのかもわからない抽象画では、抽象度が大きく異なる。児童の好む絵画と児童が自ら描く絵画から、抽象化というものに対する嗜好や個性が推測できるのではないだろうか。
私の場合、デザイン的な絵画を好むが、自分ではそのように対象を大胆に省略した絵を描く事ができない。対象をそのように描けるように捉えていないからである。従って私の絵を描く技術がどんなに優れていてもそのようなデザイン的な絵は描けないだろう。では、私が対象をどのように捉えているかというと、細部の積み重ねとして捉える傾向が強い。従って自分で絵を描くとしたらディテールに拘ったリアルな絵を描くだろう。これは、大局的なものの見方に憧れるものの、現実は局所に囚われてしまうと言い換える事ができるのではないだろうか。
また音楽でも、メロディを好むか、リズムを好むか、歌詞の内容を好むか、歌詞をどのように捉えているのかといった点から測定可能かもしれない。
では、その子供の抽象化に関する個性を測定した結果をどのように定量化するのか、結果を子供の援助にどのように活かすのか、各科目のカリキュラムをどのように抽象化のレベルによって分割し再構成するのか、残念ながらその辺に関してはまだ全く具体的なアイデアはない。
ただ、少なくとも幼児がある1つの概念を理解している時に、その理解とは抽象化の度合いが異なる(「視点が異なる」ではなく)別の概念の理解の仕方があると提示したりできるのではないかと思っている。またそれは視点の違いよりもコンフリクトが生じにくく受け入れが容易なのではないかとも考えている。共感を通して保育士が日々行っている事を言い直しているだけにも感じるが……。
また、ある人が事象の理解の為に普段利用している「抽象化の度合い」の周辺にある抽象化の度合いというのは、他者の手助けを得る事によってその人にとって有益な事象の見方が得られるという意味でヴィゴツキーの最近接発達領域に類するものなのではないかと思う。
しかしそれは、通常の最近接発達領域と違ってパーソナリティと結びついていて、発達によって解消できる種類のものではなく、その人が新しい事象に出会う度に課題となるような領域なのではないかと思う。

子どもと哲学を: 問いから希望へ [勁草書房]

子どもと哲学を: 問いから希望へ (著)森田伸子 [勁草書房]

哲学する事について

学校との間に問題を抱えた子供の事例ばかりを取り上げながら、学校には哲学する時間が必要だと論じている事には違和感を覚える。哲学する授業の実践例についてはとても興味深かったが、本当にすべての人にとって哲学して社会の上げ底を埋める行為が必要なんだろうか。無意識のバイアスを自覚する事なんかには有効かもしれないし、社会も良い方向に可能性もあると思うがそうではないかもしれないし、考え続ける事のしんどさもわかっているつもりなので、それを万人に強要したいとは思えない。
ただ哲学できる場所を必要としている子供がいるとは思うし、そういう場所の必要性は感じた。
私は、保育の場に、暇な大人の存在の必要性というのを感じている。子供でも空気を読んで、忙しい大人に話しかける事を必要性に応じて遠慮するからだ。そして、馬鹿馬鹿しいと言われるかもしれないが、この本を読んで、小学校や中学校でも子供と利害関係にない暇そうな大人というのを導入すれば良いのだと思った。肩書きは……そう、哲学者でいいんじゃないだろうか。
子供を世界の外に連れ出すには、世界の多様性を、人の多様性を示す事だと思う。学校にいる暇そうな哲学者は、学校内の大人社会の権威とは無縁で、社会の中ではある種異質な存在としている。子供達は、水面の世界の人間、きれい事の世界の人間とは判断できないのではないだろうか。そして、そのような存在が許されている事自体の意味。
大学で哲学等を学んでいる必要はないだろう。まずは一緒に学ぶ事からはじめたら良い。ただ社会の上げ底に対して結論を出さず、問う事をやめていない必要はある。またカウンセラーのように聞く技術は必要かもしれない*1
ただ時代は学校で哲学できる環境とは逆方向に行っているようにも思える。

神様

「アル」「ナイ」という問いは宗教に結びついた問いであると思う。そして宗教という点で日本という国は特異である。それでは、日本という国は「アル」「ナイ」を子供が考える環境として恵まれているのだろうか、恵まれていないのだろうか。宗教というのは、どういった種類の上げ底になり、又どのくらい上げ底になるのだろうか。

登校拒否は病気ではない

登校拒否は病気ではないと言う言葉の裏には、病気の者を治療したり、矯正したりする事には賛成するという考えが隠されているという。しかし、これは病人自身が治療や矯正を受ける権利自体を放棄する考え方ではないだろうか。治療にはお金がかかり、また、保険治療という制度がある現状において、病気というラベルは病人自身が欲している物でもある。
ちなみに私はトランスジェンダーで、戸籍を女性に変えたいとすら思っているからGIDというラベルを欲している。本当はそんなラベルがなくても必要な医療行為として当人の望む治療を受けられるのが正当なのではないかとも思っている。
もちろん冒頭のような考えが隠されているというのも1つの考え方であると思う。それは本来治療しなくても良いものに、病気というラベルを貼れば治療できてしまう事に対する恐怖のようなものが根っこにあるのだと思う。社会や人間というものに様々な疑問を抱いている人間なら、社会にとって都合の良い、本当の自分ではない人間に変えられてしまう大きな不安を抱えているのだろう。もちろんそんなものを肯定するつもりはない。反社会的行為をして、裁判で判決でも出されない限り、当人の望まない人格の変更なんて許されないものだと思っている。

私の子供時代の「アル」と「ナイ」

幼児時代の事はほとんど覚えていないけれど、自分の出生の秘密、自分の存在について問うた記憶はない。その理由として1つ考えられるのは3歳下の妹の存在ではないだろうか。妹の出生を通して「アル」の不思議に何かしらの答えを見いだしたのではないだろうか。
また、子供の頃の私は、私自身にも私自身の存在にも興味がなかった。社会にも興味がなかった。だから高校を卒業してしばらくするまで、社会と自分との齟齬に気がつく事もなかった。例えば福祉映画感想文のようなものも模範解答とはほど遠い内容を書いていたと思うが、それが人とは違うのだと理解する事はなかった。教師から問題視された覚えはないから、トータルとしてはノーマルの範疇に入っていたのだろう*2
一方「ナイ」については考えていた。小学生の頃には、「死=私という存在の無」と考えていた。自分の存在しないこの世界の事を想像するのがなぜかとても怖かった。死そのものより怖かったような記憶がある。
また、私は子供の頃から無限について考えるのが怖い。幼い頃は、無限にたどり着こうとしていたのだろうか、数字をひたすら頭の中で並べ続けるという行為を時々して、いつも途中で怖くなってやめていた。無限の記号を習って、無限を操作する事を覚えたときは少し安心した物である。今では宇宙には果てがあると知っているが、この宇宙に境界があるという事は、この宇宙の外の世界があるという事で、その無限性を考えるのは今でも不快であったりする。
ちなみに宇宙や無限の中に神様を見た事はない。そして、今の私は、見えないものの事を考えるのは好きだが、見えないものの存在を前提とした答えには身を委ねないし、わからないものには答えを出さない。

ピアジェ

全くこの本の趣旨とは離れてしまうが、P.45-46のピアジェについて。
抽象化というのは、対象物から様々な属性を取り出して、対象物とは別の物の中にその共通性を見いだす事だと思う。名付けるという行為自体が一つの抽象化であって、子供もこういった低レベルの抽象化は乳児時代には獲得している。
では、リンゴは1つ1つ異なるリンゴなのだと説明して乳幼児は理解できるだろうか。例えば、好きなリンゴを選べといえば選べるだろう。それはリンゴ1つ1つのリンゴの中に個性を見いだしていると言えると思う。しかし本当に総体としての抽象化されたリンゴという言葉と具体的な1つ1つのリンゴの間を自由に行き来できているのだろうか。
とりあえず、できていないとして、それではリンゴに名前をつけたらどうだろう。こっちのリンゴには赤のシールを貼ってあかくん、あっちのリンゴには青いシールを知ってあおちゃん。今度は間違いなく抽象的なリンゴというグループと個々の具体的なリンゴの間を自由に行き来できるのではないだろうか。
存在論的問いに注目しなかったということはあるかもしれないが、名前と物の区別という点で大人と子供の能力は異なっている事もまた事実なのではないだろうか。

*1:そのような適任はいるのか。例えば、ニートの一部の人は、問い続けている結果としてニートなのだと考えるのは彼らを高く評価しすぎだろうか

*2:死が怖かったから、戦争もとても怖かった。もしかしたらそのような心持ちが教師の望むような作文を書かせていた可能性はある。また落ちの部分でホロリとさせるようなテクニックを身につけていた節もある。子供の頃、本や物語が大好きだったから

心の中のブラインド・スポット 善良な人々に潜む非意識のバイアス[北大路書房]

心の中のブラインド・スポット 善良な人々に潜む非意識のバイアス
(著)M.R.バナージ,A.G.グリーンワルド (訳)北村英哉,小林知博 [北大路書房]

この本は、人にはその存在を意識できず自動的に適用されてしまうバイアスがある事をIATというテストを通じて明らかにし、その存在の問題点を指摘し、問題の解決を図ろうという本である。
IATには日本語版も存在するが、アクセスすると英語のページに遷移してしまう。どうもPROJECT IMPLICIT Social Attitudes→take a testの順に進んだ後、再度日本語版のページにアクセスすると日本語でテストが受けられるようだ。
基本的にこの本はとても良い本で多くの人に読んで欲しいと思うし、IATも受けてみて欲しいと思う。もっと日本人に相応しいIATもあると思うので誰か作ってくれればいいのだが。あととりあえず本家の障碍者IATの日本語版は欲しい。

以降は書評ではなくて本書の内容を自分なりに考えて授業後に教師に質問したい点を纏めたみたいなものだ。疑問に関連する情報へのポインタなど示していただけると幸いである。

1.非意識的バイアスは本当に非意識的なものなのか

著者たちは、非意識的なバイアスを本当に普通なら自覚できない隠されているもののように語っているが、それに疑問を感じる。というのは、この本の中で笑いとIATの相関が示唆されているからだ。これは非意識的なバイアスが表層にまで出現している現象だと言えると思う。
この笑いの感情に違和感を持てれば自分の中の好ましくない存在を自覚できるはずであるし、そのような人はたくさんいると思う。そういう心の底の暗くて見えない部分に焦点を当てた物語も世の中には溢れている。ただしそれはIAT試験を試しに受けてみる層ではないかもしれない。結果は自明だから。実際、私の場合、IATの試験結果で衝撃を受けるほど予想から大きく外れるものはなかった。隠すものでもないのでテスト結果については最後に示す。

2.著者たちの持つ非意識的バイアス

著者たちは、IATによって自身の人種バイアスを知った時の衝撃や嫌悪感を語り、それを個人として克服すべきもの個人として完全に根絶すべきもの語っている。
私は、ここから著者たちが2つの非意識的バイアスに支配されているように見える。
1つめは、”好ましくない非意識的なバイアス=悪”というバイアス。
2つめは、”自分=善良(であらねばならない)”というバイアス。
この2つめの、”自分=善良(であらねばならない)”というバイアスは、情報化社会の中で一つの火種をはらんでいると思う。その1つとして、デマフォビアとでも呼べる現象があるのではないかと思う。福島原発の異常が報じられた時、福島型原発メルトダウンしないから大騒ぎする事態ではないという言説がツイッター上で流れているのを見た。善良で賢明な彼らは、デマの流布を恐れてそのような事をしたのだろうが、事実とは異なっていた(彼らの考えるメルトダウンではなかったかもしれないが、メルトダウンと言われる現象が起き、大きく放射性物質が漏れた事は確かである)。
上記二つのバイアスのせいなのか、作者たちのマインドバグ対策は、個人個人の改善の方に目が行きがちで、社会の方で対策を行おうという視点が乏しい。いや、社会での対策は当然で、その上で個人も改善していくべきだと思っているのかもしれない。まだ好ましくないステレオタイプ浸透装置としての社会が厳然と存在しているしその段階ではないと思うが。
個人的に考えるステレオタイプ対策は、自ら親近感を持って様々な人たちと関わり集団ではなく一人一人の人間としての資質を実感する事とむやみに集団への所属意識を求めない事である。この作者の一人は、色んな人種、色んな職業に就いている女性のスクリーンセーバーを作って見ているそうだが、なぜそんな遠回りをするのだろう。
フロイトは、人類の自己愛を壊した科学的発見として、コペルニクスの地動説、ダーウィンの進化論、そして自身の精神分析を挙げたそうだが、それから100年近く経って様々な科学的知見も増えてきたのに、まだ人間は自己の完全支配に関しての幻想が捨てきれないらしい。

3.好ましくない種類の非意識的なバイアスとは本当に悪なのか

先の項の続きになるが、普段は隠されている内なるバイアスの存在に気がついている人というのはある程度いると思う。また現代の社会では、人間に善良さを求める社会の空気が強まったからこそ、その自分も正しいと思う人間像・社会像と自分の内面の普段見えにくい場所にある好ましくないステレオタイプのギャップに気づき、苦んでいる人間というのも多くいると思う。
だから、好ましくないステレオタイプを持つ事自体は人間の本質であり悪ではないと言いたい。そして、私は、個人の中にマインドバグやそこから生じる内集団ひいきはあって良いと思う。個人のプライベートにおける有限のリソースをどのように割り振るかは個人の自由だと思うからだ。
もちろんそれがパブリックに影響を与えるのは良くない。そこで平等主義を気取りたい人間の責任ある態度というのは、マインドバグの存在をどう具体的に自覚するかその上でどういう時にその存在を思いだしどう振る舞うべきなのかを学習する事だと思う。そして、パブリックの場においては、意思・決定時にマインドバグができるだけ介入しないシステムを作った上で、それが存在しないかを監視しそれを指摘するようなシステムを導入する方が適切だと思う。

4.許容できるマインドバグの線引きとは(それはバイアスの影響なしに定義できるのか)

社会で対策すべきステレオタイプとその必要の無いステレオタイプの線引きについて考えてみるのだが。これは難しくてわからない。
私は、女性差別者と言われるかもしれないが、女性が数学が苦手というステレオタイプが即座に悪だとは思わない。それが問題になるのは、数学好きで適性もある女性の可能性の芽を摘む場合だけであるからだ(そしてその才能を見極め芽を摘まないのは養育者~保育者~教師の役目である。それらの人たちが個々の子供を偏見のない目で見られればそれで十分なのではないだろうか)。
女性に平等に数学の能力があるとして、女性の多くは本当にその能力を伸ばし、生かしたいと思うのだろうか。言い換えれば、女性は数学が苦手というステレオタイプは数学に興味の無い女性に言い訳を用意し、別の興味ある分野により力を注ぐきっかけとして働く可能性もあるのではないだろうか。
数学を好む比率もまた男女等しいというならそれは改善すべきステレオタイプだろう。しかしそうでないなら、本当にそれは改善すべきステレオタイプなのだろうか(また裏返しとしての女性は言語に強いというステレオタイプも存在している)。例えば、自閉症の発症数に性差があるという事実とその症例からいって、知的能力自体は男女等しくても、それを支える土台や興味の方向性なんかは異なる気もするのだが、そういう事はあり得ないのだろうか。
ともかく現時点では著者たちの主張するような能力の等しさだけを問題にしてステレオタイプに善悪の線を引く事は必ずしも正しい事では無いと思う。性差も考えた上でもっとポジティブなステレオタイプがあるならそちらを歓迎したいし、男女の興味に性差がないとなれば考えを改める事にやぶさかではない。

5.幼児教育とステレオタイプ その1

この本を読み、幼児期に不要なステレオタイプを獲得するのを避ける必要があるように感じた。
乳幼児はどの段階でどのようなステレオタイプをどの程度の強度で獲得するのだろうか。そのステレオタイプが今の心的な生活や後々の人生にとって有益または害なのだろうか。幼児教育の場以外で不要なステレオタイプな情報が流されている現在の社会でどのような幼児教育環境を用意するのが適切なのだろうか。
もしステレオタイプを避けようとするなら、保育者の多様性の確保、幼児の持つステレオタイプに気づきそれをどうするか(そのままにするのか、その場で反証の例を出すのか、日常の中でステレオタイプと異なる事例を用意するのか等々)考えられる事などが考えられると思う。ただ多様性と言っても理屈が先行したり大人が対立したり子供を混乱させてしまったら元も子もないだろう。

6.幼児教育とステレオタイプ その2

子供の興味について、男の子は機械やブロックを好み、女の子はママゴトを好むというようなステレオタイプがあると思う。実際、男の子はブロックで乗り物を作るし、女の子はブロックで家を作るというような事も多いだろう。これはどこまでが社会の反映なんだろうか。女の子のママゴトと女性が家事をしている事とは関係があると思う。では、お人形さんやより年少の子の世話を好むのにも関係しているんだろうか。男の子の方がブロック遊びをするのには、何かしらの社会のステレオタイプが反映されているのだろうか。大人が男の子にはブロックを与えるからだろうか。
幼児教育に関するジェンダーステレオタイプの議論を見て常々思うのは、社会の男女の役割を本当に子供に押しつけているのだろうかと言う事だ。そんなお仕着せの遊びが長続きするとは思えないし、子供は自分の興味に従って遊んでいるのだと思う。では、何を通して子供にジェンダーステレオタイプが浸透していくのか。私は、子供が愛着を示している、子供の周囲にいる大人の日常生活と「大人が子供のジェンダーによって使い分ける褒め言葉」(男の子には「かっこいい」、女の子には「かわいい」)によって浸透するのではないかと思う。
では、その使い分けは悪なのか。そう言い切る根拠は私にはない。これは先に書いた女性=数学が苦手よりなお根深いと思う。話を単純化すると、社会では通常角張った物の形を褒める時にかっこいいといい、丸いものをかわいいと表すると思う。ある男の子が社会でかっこいいと言われている角張った物をより好むなら、その子自身もかわいいよりかっこいいという褒め言葉に喜ぶだろう。さらに言えば大人の男の体も角張っている。それは自身のより良い大人像に繋がる事もあるのではないだろうか(女の子の場合はその逆)。
もちろん個々の子供の個性を見極め、一人一人に対して適切な褒め言葉を使い、可能性の芽を摘まずに伸ばしていくのは、養育者や保育者の努めだと思っている。それは前提として環境中のジェンダーステレオタイプにどれだけ敏感になるのかという話である。

7.アスペルガー症候群の持つステレオタイプ

アスペルガー症候群の人は、そうではない人と同じ社会の中で暮らしながら異なる文化体系を獲得していると思う。宇宙人と評されたりするのはその証拠だろう。
偏見かもしれないが、彼らは主観的で他者への共感性が薄く合理的論理的なのだと理解している。身近な環境や社会が人に浸透してステレオタイプ→マインドバグを生み、彼らもその支配から逃れられないとしても、その個性からすれば多数派とは異なるステレオタイプが生じていてもおかしくないのではないだろうか。
私は、彼らのステレオタイプやマインドバグや多数派のステレオタイプとの差異から社会や文化の別の側面や課題が読み取れる可能性はあると思う。

8.私のIATの結果とその感想

人種IATとセクシャリティIATは、3度目くらいの結果だと思う。それ以外は最初のテストの結果である。

人種IAT ”白人の人たちよりも、黒人の人たちに対する中程度の自動的な選好”
これが3度目くらいの結果だが、一番黒人寄りに出ている。平均としては、もう1段階低い選好である。
どちらかと言えば白人中心主義の方に影響を受けているのだろうと想像したが、結果は異なった。大ざっぱに言えば、私には好きな白人俳優・女優が何人かいる。それよりは少ないけれどより強い好印象を黒人スポーツ選手に抱いている。その強い印象の方がテスト結果に出たのだろうか。
私が最初にやったのは本に付属している人種IATで、これには子供の白人、黒人の顔が使用されている。このテストの結果は黒人へのわずかな選好だったのだが、人種よりも子供に対する好意に引きずられているのを感じた。試験を受けている時、子供と悪い意味の単語を同じ方に分類するのに手間取っているのがわかった。

セクシャリティIAT "異性愛者よりも同性愛者に対する中程度の自動的な選好"
これは完全に予想外の結果だった。正直に書くと、私は男性同士が性行為を行うような動画を見る事には嫌悪感を覚える。女性同士の物なら別に普通に見られるが、見るのはもっぱらヘテロセクシャルの動画ばかりである。だから、同性愛者を特に差別するようなつもりもないのだが、ヘテロセクシャルへの選好を示すと思っていた。でも別に受け入れられない結果でもない。ちなみにテストは男性同士の同性愛の記号ばかりだったと思う。

ジェンダーIAT "男性と科学、ならびに女性と人文学に対する強い連合"
自覚している通りの結果だった。想像していたから引きずられてとかそんな事はない。数回受けただけでそんな事ができるようなテストではない。ただ女性ばかりの職場で働いているし、女性を尊敬している事を付け加えておく。私にとって女性の働く姿も女性上司の下で働くのも当たり前の事である。この職業を選ぶのに女性の下で働く事という事実で悩んだ事は一切無いし、その事に抵抗を覚えた事はない。

国家IAT "米国よりも日本に対する強い自動的な選好"
自覚している通りの結果だった。私はリベラル寄りなので政策によっては売国奴呼ばわりされる事もあるだろうが、結果はこの通り。中国や韓国と日本の選好?その2国にアメリカ以上の好感度なんて無いと思っているが、確かにまあやってみなければわからない。

障碍者IAT "a slight automatic preference for Abled Persons compared to Disabled Persons"
自覚している通りの結果だった。米国人の差別に関するテーマが人種なら、私自身のテーマは障碍者だと思っているし、この問題が一番複雑さを内包していると感じている。社会の表面に出ているものからしてゴチャゴチャしている。だから、この本で障碍者差別についての言及があまりない事は意外だった。