読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

子どもと哲学を: 問いから希望へ [勁草書房]

子どもと哲学を: 問いから希望へ (著)森田伸子 [勁草書房]

哲学する事について

学校との間に問題を抱えた子供の事例ばかりを取り上げながら、学校には哲学する時間が必要だと論じている事には違和感を覚える。哲学する授業の実践例についてはとても興味深かったが、本当にすべての人にとって哲学して社会の上げ底を埋める行為が必要なんだろうか。無意識のバイアスを自覚する事なんかには有効かもしれないし、社会も良い方向に可能性もあると思うがそうではないかもしれないし、考え続ける事のしんどさもわかっているつもりなので、それを万人に強要したいとは思えない。
ただ哲学できる場所を必要としている子供がいるとは思うし、そういう場所の必要性は感じた。
私は、保育の場に、暇な大人の存在の必要性というのを感じている。子供でも空気を読んで、忙しい大人に話しかける事を必要性に応じて遠慮するからだ。そして、馬鹿馬鹿しいと言われるかもしれないが、この本を読んで、小学校や中学校でも子供と利害関係にない暇そうな大人というのを導入すれば良いのだと思った。肩書きは……そう、哲学者でいいんじゃないだろうか。
子供を世界の外に連れ出すには、世界の多様性を、人の多様性を示す事だと思う。学校にいる暇そうな哲学者は、学校内の大人社会の権威とは無縁で、社会の中ではある種異質な存在としている。子供達は、水面の世界の人間、きれい事の世界の人間とは判断できないのではないだろうか。そして、そのような存在が許されている事自体の意味。
大学で哲学等を学んでいる必要はないだろう。まずは一緒に学ぶ事からはじめたら良い。ただ社会の上げ底に対して結論を出さず、問う事をやめていない必要はある。またカウンセラーのように聞く技術は必要かもしれない*1
ただ時代は学校で哲学できる環境とは逆方向に行っているようにも思える。

神様

「アル」「ナイ」という問いは宗教に結びついた問いであると思う。そして宗教という点で日本という国は特異である。それでは、日本という国は「アル」「ナイ」を子供が考える環境として恵まれているのだろうか、恵まれていないのだろうか。宗教というのは、どういった種類の上げ底になり、又どのくらい上げ底になるのだろうか。

登校拒否は病気ではない

登校拒否は病気ではないと言う言葉の裏には、病気の者を治療したり、矯正したりする事には賛成するという考えが隠されているという。しかし、これは病人自身が治療や矯正を受ける権利自体を放棄する考え方ではないだろうか。治療にはお金がかかり、また、保険治療という制度がある現状において、病気というラベルは病人自身が欲している物でもある。
ちなみに私はトランスジェンダーで、戸籍を女性に変えたいとすら思っているからGIDというラベルを欲している。本当はそんなラベルがなくても必要な医療行為として当人の望む治療を受けられるのが正当なのではないかとも思っている。
もちろん冒頭のような考えが隠されているというのも1つの考え方であると思う。それは本来治療しなくても良いものに、病気というラベルを貼れば治療できてしまう事に対する恐怖のようなものが根っこにあるのだと思う。社会や人間というものに様々な疑問を抱いている人間なら、社会にとって都合の良い、本当の自分ではない人間に変えられてしまう大きな不安を抱えているのだろう。もちろんそんなものを肯定するつもりはない。反社会的行為をして、裁判で判決でも出されない限り、当人の望まない人格の変更なんて許されないものだと思っている。

私の子供時代の「アル」と「ナイ」

幼児時代の事はほとんど覚えていないけれど、自分の出生の秘密、自分の存在について問うた記憶はない。その理由として1つ考えられるのは3歳下の妹の存在ではないだろうか。妹の出生を通して「アル」の不思議に何かしらの答えを見いだしたのではないだろうか。
また、子供の頃の私は、私自身にも私自身の存在にも興味がなかった。社会にも興味がなかった。だから高校を卒業してしばらくするまで、社会と自分との齟齬に気がつく事もなかった。例えば福祉映画感想文のようなものも模範解答とはほど遠い内容を書いていたと思うが、それが人とは違うのだと理解する事はなかった。教師から問題視された覚えはないから、トータルとしてはノーマルの範疇に入っていたのだろう*2
一方「ナイ」については考えていた。小学生の頃には、「死=私という存在の無」と考えていた。自分の存在しないこの世界の事を想像するのがなぜかとても怖かった。死そのものより怖かったような記憶がある。
また、私は子供の頃から無限について考えるのが怖い。幼い頃は、無限にたどり着こうとしていたのだろうか、数字をひたすら頭の中で並べ続けるという行為を時々して、いつも途中で怖くなってやめていた。無限の記号を習って、無限を操作する事を覚えたときは少し安心した物である。今では宇宙には果てがあると知っているが、この宇宙に境界があるという事は、この宇宙の外の世界があるという事で、その無限性を考えるのは今でも不快であったりする。
ちなみに宇宙や無限の中に神様を見た事はない。そして、今の私は、見えないものの事を考えるのは好きだが、見えないものの存在を前提とした答えには身を委ねないし、わからないものには答えを出さない。

ピアジェ

全くこの本の趣旨とは離れてしまうが、P.45-46のピアジェについて。
抽象化というのは、対象物から様々な属性を取り出して、対象物とは別の物の中にその共通性を見いだす事だと思う。名付けるという行為自体が一つの抽象化であって、子供もこういった低レベルの抽象化は乳児時代には獲得している。
では、リンゴは1つ1つ異なるリンゴなのだと説明して乳幼児は理解できるだろうか。例えば、好きなリンゴを選べといえば選べるだろう。それはリンゴ1つ1つのリンゴの中に個性を見いだしていると言えると思う。しかし本当に総体としての抽象化されたリンゴという言葉と具体的な1つ1つのリンゴの間を自由に行き来できているのだろうか。
とりあえず、できていないとして、それではリンゴに名前をつけたらどうだろう。こっちのリンゴには赤のシールを貼ってあかくん、あっちのリンゴには青いシールを知ってあおちゃん。今度は間違いなく抽象的なリンゴというグループと個々の具体的なリンゴの間を自由に行き来できるのではないだろうか。
存在論的問いに注目しなかったということはあるかもしれないが、名前と物の区別という点で大人と子供の能力は異なっている事もまた事実なのではないだろうか。

*1:そのような適任はいるのか。例えば、ニートの一部の人は、問い続けている結果としてニートなのだと考えるのは彼らを高く評価しすぎだろうか

*2:死が怖かったから、戦争もとても怖かった。もしかしたらそのような心持ちが教師の望むような作文を書かせていた可能性はある。また落ちの部分でホロリとさせるようなテクニックを身につけていた節もある。子供の頃、本や物語が大好きだったから