どのレベルに物事を分解するのかという抽象化に関する個性は教育に活かせるのではないか(妄想)

 通常「この教科の学習要領はこれ」と1つのラインが決まっているものだが、物事を抽象化する能力という特性によって、それを3つ以上のラインに分けられるのではないかと考えている。
人がどのように世界を抽象化・階層化して認識し、どの部分に焦点を当てるのか。それは教科の得手不得手とは別のベクトルで、人の個性や知的活動における適性を考える上で、重要な要素なのではないかと思っている。それをカリキュラムに導入したらいいのではないかと思うようになった。ちなみに物事を抽象化する能力が高ければ高いほど頭が良いとは考えていない。
例えば、歴史の学ぶ視点についておおざっぱに考えてみる。
まず歴史小説のように歴史上の人物個々にまで焦点を当てながら、歴史上の事件を理解しようとするのがミクロで具体的な方法。
次に歴史上の事件の時間軸やそれにどの人物がどう関わったのかといった点から歴史の流れを理解しようとする方法。
最後に歴史上の事件を抽象化し、何が他の事件と共通していて、何がある事件に固有のものなのかといった見地から歴史の教訓的意味を探ろうという大局的で抽象的な方法。
どれが歴史の正しい学び方というのではない。どの階層で物事を理解するのを好むのかという個性に焦点を当てて複数のカリキュラムを用意できるのではないか、(AIを利用する事で)その抽象化度合いの異なる複数のカリキュラムや複数の教科を柔軟に横断しつつ学習を進められる方法があるのではないかと思うのだ。
では、それをどのように幼児(児童)教育において測定するのか。私は、それに絵画が有効なのではないかと思う。
リアルを追求した細密描写の絵と細部が大胆に省略されたデザイン的な絵と何が描かれているのかもわからない抽象画では、抽象度が大きく異なる。児童の好む絵画と児童が自ら描く絵画から、抽象化というものに対する嗜好や個性が推測できるのではないだろうか。
私の場合、デザイン的な絵画を好むが、自分ではそのように対象を大胆に省略した絵を描く事ができない。対象をそのように描けるように捉えていないからである。従って私の絵を描く技術がどんなに優れていてもそのようなデザイン的な絵は描けないだろう。では、私が対象をどのように捉えているかというと、細部の積み重ねとして捉える傾向が強い。従って自分で絵を描くとしたらディテールに拘ったリアルな絵を描くだろう。これは、大局的なものの見方に憧れるものの、現実は局所に囚われてしまうと言い換える事ができるのではないだろうか。
また音楽でも、メロディを好むか、リズムを好むか、歌詞の内容を好むか、歌詞をどのように捉えているのかといった点から測定可能かもしれない。
では、その子供の抽象化に関する個性を測定した結果をどのように定量化するのか、結果を子供の援助にどのように活かすのか、各科目のカリキュラムをどのように抽象化のレベルによって分割し再構成するのか、残念ながらその辺に関してはまだ全く具体的なアイデアはない。
ただ、少なくとも幼児がある1つの概念を理解している時に、その理解とは抽象化の度合いが異なる(「視点が異なる」ではなく)別の概念の理解の仕方があると提示したりできるのではないかと思っている。またそれは視点の違いよりもコンフリクトが生じにくく受け入れが容易なのではないかとも考えている。共感を通して保育士が日々行っている事を言い直しているだけにも感じるが……。
また、ある人が事象の理解の為に普段利用している「抽象化の度合い」の周辺にある抽象化の度合いというのは、他者の手助けを得る事によってその人にとって有益な事象の見方が得られるという意味でヴィゴツキーの最近接発達領域に類するものなのではないかと思う。
しかしそれは、通常の最近接発達領域と違ってパーソナリティと結びついていて、発達によって解消できる種類のものではなく、その人が新しい事象に出会う度に課題となるような領域なのではないかと思う。