大人の発達障害に関する雑感

この文章は多分に発達障害者への誤解や偏見が含まれているかもしれない。差別だなんだと言って表現を表に出さないようにする行為ってただ差別を個人の中に押し込めているだけじゃないだろうか。そこで、発達障害の問題について考えている人に対し、何がどのように誤解や偏見を生むのかと言ったヒントになればと思い、私がどのように考えているのかを敢えて率直に表現してみる事にした。差別主義者だと言われる事は怖いけれど、完璧な人間ではないのだからしかたない。それにまあ、私はその辺の人たちより発達障害者に対して優しくできるだろう自信はあるし、発達障害について知る事、知識の足りなさ過ちを指摘される事によって自分の内面を、あるいは生理的なものを克服できなかったとしても、社会に対して表現する部分については修正できると思っている。
大人の発達障害者は、学校時代クラスメイトや教師に、理解できない事に対して同意や共感を求められたりして苦しむのだそうだ。まだまだ発達障害の人には生きづらい世の中なのかもしれないけど、今ではきっと発達障害者の仲間が表現したものがたくさんあって、理解者も大勢いて、自分がなぜ学生時代に苦しんだのか理解できるようになって、また、そうやって自分たちの苦しみを表現してるんだと思う。
でも、そういう発達障害者の話をよくよく読んでみると、発達障害者は同じ障害を持つ仲間の声はともかくとして、多数派の中にいる自分たちの理解者の声を誤解しているのじゃないかと感じる時がある。理解者は、社会より発達障害者の考え方の方が正しいという事に理解を示しているのではなくて、発達障害者が他者と違う事で苦しんだという苦しみに共感して、その苦しみに理解を示しているのだと思うけれど、発達障害者は前者のように捉えてる人も多いような気がするのだ。自分たちが固執するものに固執することもまた他者への価値観の押しつけなのに、社会の多数派の側が間違いで自分たちは正しいのだから押しつけではない(大げさに言えば啓蒙なのだ)と思ってるような節がある。
発達障害者を理解できる人というのは、多感な人なのだと私は想像する。子供の時代、普通や常識といったものを素直に受け入れず、疑って考えて疑って考えて、自分なりの答えを見つけ出そうと人たち。発達障害者と同じように既存の社会に疑問を抱いた人たち。違いがあるとすれば、自分が共感できる人や社会の在り方という答えやその手がかりを見つけ出し、知識ではなく心の部分で、人や社会との繋がりを再発見できるか否かなんじゃないかなと思う。
一方、発達障害者はルールに固執する。それはある意味で科学や法に感情移入していると言ってもいいだろう。発達障害者の主観的な正しさは、科学的事実や法の字義原理を土台とし、人間性を喪失していく。大げさのように思われるかもしれないけど、共感という理解できないものを、真実に基づいた行為を阻害する要因と見なしている人はいる。それは結果的に多様性を喪失してしまうような方向であって自分の居場所さえ危うくなるのだけど、発達障害者は気にしない。人としての欲求や生活の主体者であるという事をどこかで軽視している。もしかするとその必要性を自覚していないのかもしれない。自分たちが科学や法に共感と呼べる感情を持っている事に気付いてくれれば良いのだけど、それは客観的真実を求める行為と主観的真実を求める行為を分離しにくくもあるし、自己の客観視が難しい人に自覚するのは難しくはあるだろう。
主観を疑い社会の多様性の中に自分たちの場所を見いだした人たちと主観的なルールを求め多様性を喪失するような方向に社会を求める人たち。既存の社会に対する適応に苦しむ同士でありながら、実は対極に位置している部分もある。
もう1つ、発達障害者の人が、社会の中で他人に合わせて演技をすることを学び、本心とは違う演技をしているのだと、それがまるで発達障害者の特質であるかのようにいう人を見かけたことがある。発達障害でない人間であっても、いつもも共感してるわけではなく、むしろストレスを感じながら演技をしていることの方が多い。発達障害者のように、意味もわからないまま、上の側の価値観を強制されている事だってままある。その事がわかっているのだろうか?と思う。違うのはストレスの感じる場面の量と感じる強さだろう。例えば、発達障害ではないものは、2つのルールがあって、ある場面では片側のルールに従い、別の場面ではもう1方のルールに従うと言った事それ自体にはストレスを感じにくい。ルールを守ること自体にさほど固執しないし、守らない必然性が理解できる場合も多い。
以上、多様性のある社会という中に発達障害という個性を見ている人たちは、発達障害の認め方を改める必要があるんじゃないだろうか。少なくとも、「彼らを認める事」と「彼らの考えを認める事」は違うという事、彼らの主張を正当なものとして上に見ているのではなく、多様性の中に1つの考え方として見ているのだという事を伝えていく必要があるんじゃないだろうか。そうしないと歩み寄りどころか「正しい自分」と「愚かなマス」という認識から分断が進んでしまう可能性もあると思う。
幼児、児童教育においても、発達障害の子供を認め、共感してあげることは大切だろう。でも、何に共感しているのか、その共感をどのように位置づけているのか(真実への共感ではなく、多様性の中における1つの考え方としての共感)を示してあげることが大事なんじゃないだろうか。

追記
例えば長谷川豊の「糖尿病~」発言や小泉進次郎の健康ゴールド免許と言った提言から社会情勢を考えると、個人の自由の範疇で有るはずの生きる快楽の追求がモラル(ルール)化されて制限されようとしていると言えるのかもしれない。前者は当然の事ながら大きな反感を買ったけど、後者には妥当性を感じた人も多いんじゃないだろうか。本来人間の生や多様性の中に有るようものを、そんな風にモラル(ルール)化し、モラル(ルール)を守ることを報酬を持って奨励し反対に逸脱を自己責任化して切り捨てようとする社会って、或いは人間性を無視し科学や論理の正しさをごり押しする社会って、意外と発達障害者にはわかりやすい、発達障害者向けの社会なんじゃないだろうか。
もちろん科学や論理を重視するのは大切なことだろう。でも、それだけじゃない。発達障害者を個性と認めたのは、科学や論理ではなく、その「それだけじゃない部分」なんだって伝えていかなければならないと思う。最後に改めて。

更に追記
まあ以上は、発達障害に限らず自身の主観性に無自覚な頭が良い人全般に言えることでもあるんだけれど。