保毛尾田保毛男騒動に対する雑感

私は30年前の保毛尾田保毛男というキャラのコントは見た事が無いし、そのキャラの背景は知らない。2017年に再登場した際の保毛尾田保毛男のみを見てこの文章を書いている事を最初に書いておく。そして、とんねるずにはいじめっ子のイメージがあるし、普段なら保毛尾田保毛男というキャラをそのイメージから判断するだろうけれど、今回は敢えてそのラベルを利用していない。

差別に対して異を唱える勢力には、大きく分けて2つの勢力があると思う。1つは、何かしら人権をないがしろにされている状態の人たちを普通の人たちと同じ状態にしたいと考えている人たち。もう1つは、何かしらの差別行為によってモラルが害されたと感じ、それを正そうとする人たち。要するに、物凄く簡単にいってしまえば、リベラルと保守では、「差別はいけない」という言葉が意味している事、差別という言葉の概念が違うと言う事だ。
LGBT同性婚を例に取ると、前者は同性婚を社会において異性婚と同様に扱ってもらおうと努力する。後者は、同性婚という制度に対して積極的なソーシャルアクションを取らない。しかし、社会に差別と認められている範囲の差別行為があった場合には、その行為に対して大声を上げる。従って、同性婚という制度が社会で認められた後であれば、その制度の廃止を唱える人たちを差別主義者だと弾劾するのだろう。
私は、保毛尾田保毛男に関する大騒ぎには、後者が多く関わっていると感じる。理由は、今回の騒ぎの大きさに比してLGBTの権利拡大に関するソーシャルアクションが少なく感じるからだ。私は、後者の社会のモラルを維持する為に、モラルに反する行為に対して声を上げる自体事は間違ってはいないと思う。でも、最近の傾向は過剰だと思うし、その過剰な反応を誘発したLGBT団体の行動に好意的にはなれない。その理由は後述するとして、個人的には、このようなモラルとしての差別抑止活動は、LGBTへの認知がある程度浸透した現段階では社会の保守的な層に任せて、社会の保守的な層が差別反対を発信しているこのような機会に、彼らの中にいるまだまだLGBTへの意識改革が必要な層に対して、これから解決が必要なLGBTに関する課題を提示した方が良いと思う。
ちなみに私は保毛尾田保毛男というキャラもその名前も差別だとは思わない。その人の個性を名前で表現する手法というのは普通の事だ。あの放送で言えば、むしろ木梨憲武のセリフこそがLGBT差別の本質に近いと思う。無闇に差別というラベルを貼らなければ、保毛尾田保毛男を使って、周囲の人のどのような言動が差別なのか可視化することだってできたと思うし、そういう活動に利用する落としどころもあったんじゃないかと思う。同性愛者に対するバイアスが発露しているのに、それが社会的に問題とされていない為に気付かれていない言動なんてのも意外とあるのだし。
さて、なぜ好意的になれないか。構図が多数派による少数派叩き≒差別に見えるからだ。結局LGBTも多数派の側に回れば、多様性などに興味は無く、普通やモラルといった事を理由に差別する側に回るのだろうなという感覚を持ってしまう。
こう言うと、差別主義者なんて多様性に入らないと言われるのだろう。私は入ると思っている。もちろんそういう人たちに対して差別を指摘する事自体は当然の事だと思う。ただ前述したように差別的言動に対する反応やペナルティが過敏・過剰すぎると感じている。それは、個人の内心の自由を脅かしている。大きすぎるペナルティというものは、大きすぎる罪悪感を与えるものだと思う。私は、個人が生理的だったり、アイデンティティに根ざした部分だったり、何かしら個人的な理由で同性愛者を受け付けないのであれば、それはその個人の勝手だと思うし、その個人の個性でもあると思う。それを表現する自由もあると思う。心を知情意という3つの要素に分ける考え方があるけれど、最近では知に基づいた意(モラル等の理性的な部分)ばかりが人の本質だというように重視されて、情に基づいた意を持つ存在としての人間の本質は軽視されているように思う。私は、情、そして情に基づいた意にこそ幸せがあると信じているし、この傾向が行き過ぎるのは人から幸福や生きやすさを遠ざける事なのではないかと考える。
ただ個人の中のLGBTに対する好悪の存在を肯定しても、LGBTに対する社会的な不利益を肯定する気はない(その為には何かしらのラベルに対する好悪は隠さずに表明してもらった方が補正できて良い気すらするけど)。(有名人の)表現に影響され、それが不利益に繋がる?それは社会が悪いのではないだろうか。責任を表現した個人に着せず、社会が責任を負って、個人的な好悪に全体が影響されないような社会をつくるのが本道だと思う。差別は個人の中には無い。個人の中にあるのは好き嫌いだ。差別は社会の中にこそある、私はそう考えている。その為には、考える事というのはどういうことかを知り、自分自身でしっかり考える事、そして、人は誰でもどこかで差別主義者なのだと認める事が必要だと思っている。
少なくとも、私は自分が差別主義者である可能性を排除しない。実際、この文章でLGBT差別をしているじゃないかと言われるかもしれないが、私はLGBTで言えば、BとTだ。LGBTを差別しても不利益ばかりで利益は無い。むしろ私はLGBT当事者として、保毛尾田保毛男なんてのが大騒ぎになるのに、私自身が全然生きやすく感じられない現状にいらだちを覚えているし、違和感も覚える。そして、その違和感がこの文章の出発点にある。そうではなくて、私には様々な好悪が内在しているし、その感情によって言動が変化してしまう事がある。それがたまたま社会で差別と言われる事と交わっていないだけだと思っているという事だ。
まとめると、今回の保毛尾田保毛男に関する大騒ぎは、LGBT当事者の一人である私にとっては、LGBTの権利拡大に繋がるものではなく(私の生きやすさに繋がるものではなく)、行き過ぎた権利保護に繋がるものである(善良でもなければ道徳的でない部分を捨てきれない私=聖人ではない私にとっては生きにくさに繋がるものである)ように感じられる。もちろんこれは当事者の中でもマイノリティの意見だと思う。