無題

立岩真也氏の論の空虚さって何なんだろうと思っていたけど、http://www.arsvi.com/ts/20170053.htm を読んで(「」は引用)、人の感情を必要以上に排そうとしているからなのではないかと気付いた。氏の論は、生得的な人の多様性については認められているが、人の心や価値観の多様性を元に論が組み立てられいない。結局、氏の論でできあがる社会は、(発達)障害者もLGBTもその事で差別されない社会ではあるかもしれないが、氏の論に都合の良い価値観を持った集合だ。そこからはみ出す人=私のような人間をどうするのだろう。極論すれば、私には自分が立岩氏型統制社会を強制・矯正される姿しか想像ができない。
少し言葉を換えて繰り返すと、立岩氏の論は、人の心理、感情とも密接に関わる分野なのに、そこを軽視している。立岩氏の論は、自己の転落だったり、社会的弱者への共感だったり、元々立岩氏の提示するような社会を求めている人に対して響くだけで、その人たちに求める社会の実現に向けた1つの理屈は与えられるけれど、その範囲を超えられない。元々素養のある人には広まるかもしれないけれど、それは多数派になりえない。素養のある人は今のところ立憲民主党共産党の得票率程度じゃなかろうか。
社会学が某社会学者のように社会を斜に構えて見る為の道具ではなく、社会の現状を認識し改良しようという学問であるなら、もっと心理学や人間学と結びつくべきだろう。個人的な概念の域を超えない「大人(たち)はこういうもん」と『ボクに共感してくれる人がいる』では社会は変わらない。近くにいる人にしかその声は届かない。社会学者は、社会を通じて人を見るのではなく、もっと人自体に焦点を当てて、自分も他人ももっと深く見つめていかなくてはならない。
蛇足だが、私は福祉業についているが、それは「(具体的な)他人の幸福」に貢献する事がたまたま「自分の幸福」に繋がっているのであって、抽象的な「多数の幸福」に貢献したいなんて思わない。「愛は大切だ」ではなく「親近感は大切だ」くらいだ。だから私は寄付も献血もしていないし、ドナー登録もしていない。するつもりもない。でも、立岩氏の論は、私が親近感を抱く人たちの幸せに繋がるものだ。だから、好きだし、信じたいと思う。もちろん自分に不利益な部分があったって良い。でも同時に、立岩氏の論は、そんな私ですら『夢想』のように感じられて、説得されるには至らないのだ。今の社会に身を置いている常識的な私が、あれやこれやと疑問や疑念を提示してきて、それに納得できる答えが存在しない。
どうすれば納得できるのか具体的に指摘する事はできないのだが、立岩氏を支持するような人たちの、これからの活動に対する何らかのヒントになるかもしれないと思い、この文章を書いた。
といいつつ、それは今回の本題じゃなく。
私も子供の頃はよく本を読んでいた。図書室のSFやミステリーの棚を端から端まで読むとかしていた。
私はどちらかというと『そういうもの』と受け入れる子供で、あまり疑問に思う子供じゃなかった。ただ学校の独特なルールは、私のアイデンティティに干渉するものではなかったし、大人の世界と直接関わる事は少なかったから、「大人(たち)はこういうもん」って概念化する必要性は小さかった。一方、本を読む中で、色々な宇宙人が普通に共存しているような世界、色々な人が色々な動機で罪を犯す世界を『そういうもの』と無意識のうちに取り入れていた。それは私が社会に多様性を求める1つのベースになっていると思う。
もう1つ多様性を求めるベースとなっているのが、太平洋戦争期の言論統制だろう。それを学んだ時、『この戦争は間違っている』というような自分の信じる事を表現できない社会というものをとても恐ろしく感じた。それは戦争そのものに対する恐怖に勝っていたかもしれない。
子供の頃の私は、言ってはいけない事を言ってしまう性質が強く、自分の考えている事を言えない世界をあまり想像できていなかった。そこに出てきたのが言論統制という概念だった。『そういうもの』と無意識に取り入れていたものが、自分にとって必要なものになった。
何が言いたいかというと、私の『そういうもの』というのは、小説という虚構から「愛は大切だ」に似た別のメッセージを受け取ったのに近い。学校という現実の中での違和感から導き出した処世術としての「大人(たち)はこういうもん」というものだとは全く異なる。そもそも子供というものは、身近な大人をモデルとして「大人(たち)はこういうもん」ってずいぶんと受け入れていると思うし、そういう中で次善(この言葉には何か違和感があるが)を生きていると思う。
立岩氏のいう「大人(たち)はこういうもん」というのは、次善を生きられていない、あるいは、次善を生きているけどストレスが強い人間の言葉だろう。そのような方向に強い感受性を発揮する子供というのはいる。そして、そのような見方も多様性の1つとしてはあるだろう。でも、私はそのような「大人(たち)はこういうもん」と子供を導くことには否定的だ。私は、P4C(philosophy for children)に興味を持っているけれど、子供の考えることの教材として「大人(社会)がどうあるか」というのはふさわしいとは思わない。それは、自分ができなかった事を子供に背負わせようとする行為にも感じる。
「大人(たち)はこういうもん」という方向に子供を導いて、子供が成長した時に不幸にならない為には、大人への批判を含んだ「大人(たち)はこういうもん」を受け止め、変化させられる度量が大人の側に必要だ。でも、その度量がない事こそ大人への批判を生まれるというのもある。逆に言えば、子供のそのような批判を受け止められる社会なら、子供に敢えて「大人(たち)はこういうもん」と考えさせるよう導く必要性は小さいように感じる。
また、この手の話題になると、主体的に考える事に主眼が置かれるが、各々が「大人(たち)はこういうもん」と考えはじめると、極論すれば、『船頭多くして船山に登る』のに似た状態を生むんじゃないだろうか。従って、私には『考える人』と『その考えを判断する人』のバランスが重要のように感じられる。そして、その判断の材料こそナルニア国物語指輪物語ハリー・ポッターを読んだ経験だと、私は信じる。もちろん他の漫画だって、児童文学だって何だって良い。
そして、そうした多様な経験の上で、子供が何を考えるのが良いのか。私は、『自分が社会にあるどのような価値観を選択しているのか』『その理由は何なのか』と言った事が良いのではないかと思っている。そして、他者が別の価値観を別の理由によって選択すれば、自分とは別の正しさに行き着く事や、自分自身の価値観が生み出す『(他者とは異なる)言葉の概念』或いは『無意識のバイアス』といったものを自覚できるのが良い。

最後に。
立岩氏の文章というのは、単に自分の考え方の方が優れている、或いは、両論あるとただ並立すれば良いところを、どちらにも徹しきれずただただ回りくどくわかりにくくなっている。両論を認めているようで、自分の範囲外のものに対する否定的なニュアンスを隠しきれていないからとても居心地が悪い。認めるなら認める、否定するなら否定するところからはじめた方が良いように思う。
また立岩氏の論は、『自閉症連続体の時代』という書籍とウェブで発表されている文章をわずかに読んでいるだけだという事は付け加えておく。本当はもう少し色々読んでから書くべきなのだろうが、立岩氏の文章は非常に読みにくく、その読解に時間と労力が必要で、氏の論考自体に至るのが困難なので、どうにも避けてしまう。好奇心のメインストリームの部分でもない事もある。