合理的という事について色々

合理的に考えれば、頭が良く生まれ、現状その才能が発揮できているとすれば、それは運が良かったからだろう。遺伝や生育環境は完全に運だ。それに甘んじないで努力したと言われるかもしれないけど、その努力できる事だって生まれ持った才能(運)だし、努力できる、努力しようと思える環境で生育できた事も運だ。
この世にどう生まれるかは運だったという事をもっと突き詰めれば、自分はこの世界に存在しうるどんな人になる可能性もあった。性別が違ったかもしれないし、何かしら病気や障害を抱える事になったかもしれないし、LGBTであったかもしれないし、機能不全家族に産まれたかもしれない。生まれる国が違う可能性だって大いにあった。誰かを切り捨てるという事は自分の別の可能性としての誰かの人生を切り捨てるという事だ。別の遺伝や環境で生まれ、別のアイデンティティを持つに至った誰か(自分の別の可能性)の人生を見て、自分は頭が良い、理性的だと思っている人たちは「自分だったらああしない、こうする」「彼らと私は違う」と評論するけれど、それは単純に現在の自分のアイデンティティのまま、誰かと立場だけを入れ替えて思考しているだけであって、主観的でご都合主義なものだ。彼らがすぐに否定したがるような他者の思考形態を自分たちもまたしているという事実に気付いていない。当然ながらそのような考えは、他者のアイデンティティを否定し、切り捨てる理由にもならないけれど、その事に気付く事もできない。
そもそも論理的思考ができる事を誇り、感情的に思考する人を見下すという行為自体も、単に運の良さを誇るという非論理的言動に過ぎない。それにいったい何の意味があるのだろう。仮に自尊心や承認欲求を満たす行為なら、それは合理的でもなんでも無い、感情的な欲求に突き動かされた結果の行為だ。その自己矛盾に気付かないのだろうか。

論理的思考を誇っている人でも、いくつもの欲求やバイアスという非論理的なものに支配されている。その事に無自覚な論理的思考なんて脆弱なものだし、その事に無自覚なまま自分の論理が正しいと信じる続けるなら、その理屈は無理に無理を重ねた歪なものになっていく。しかしその部分をいくら指摘しても彼らは自分の論理が心の影響を受けている事を理解してくれないし、自分の論理の歪さに気がつく事も無くその論理に安住し続ける。


先制攻撃したがる人とか核武装したがる人とかがいる。彼らは対外的な脅威を考えれば、それが合理的な解だと思っている。でも、それは「脅威を排除すべき」とか「脅威には脅威」とか、そういう狭い視点からのみ導かれた偏った合理性だと思う。自分が加害者や被害者になる視点が都合が良く見逃されている。だから戦いは避けられるなら避けた方が良いのだという視点が欠如している。
彼らは、自分とは意見を異にする反戦の考えを、非現実的で、感情に支配された非論理的なもののように言うが、彼らの方が、恐怖という感情に操られ、その恐怖をすぐに取り除けそうな安易な答えに飛びついているように見える。彼らは自分の価値観や主張の土台の部分を「当たり前」のものとして、見直そう、考え直そうとしないから、自分の考えもまた感情やバイアスが含まれている主観的なものなのだと気付く事ができない。論理でもなんでも無く経験や歴史から「戦争をしてはいけない」という所から理屈を積み上げていっても良いし、核兵器を絶対悪という位置に置くところから合理性を積み上げていっても良い事に気付く事ができない。その方がよほど恐怖という感情をコントロールしなければならない考えであって、自分たちの方が感情的なのだと気付く事ができない。


低線量被曝のリスクが限りなく低いとして、仮にその影響を受けるのが100万人オーダーだとして、そのリスクをないものとして自分の行動を決める事は合理的と言えるだろう。リスクをそう説明するのも合理的だろう。しかし人が自分の言葉に耳を傾けずにリスクを受け入れないからといって、レッテル張りをしたり馬鹿と罵ったりする事は合理的では無い。それは自分の言葉を伝える事を諦める行為だし、相手が自分の言葉を信じる機会を奪う行為、自分と相手を分断する行為だし、どこからどう見ても感情に任せた行為だ。
またリスクをゼロと誤認させるようなレトリックを使う行為については合理的なものだとは思わない。仮にそれが合理的だとするなら、それは行政の側に寄ったものだろう。自分を頭が良いと思っている人たちにおける多数派は、自分たちの生活者としての視点を忘れ、行政側の視点を優先して論理を組み立てて、公平を装う傾向があるように思える。僕にはそれが自分で首輪をはめてる奴隷みたいに見えるけど。
その100万人オーダーの低リスクって真実は、その真実を受け入れない人を馬鹿にできるほど、真実だと他者に強制できるほどの絶対的真実なんだろうか。少なくとも100万人オーダーでもリスクが0でないなら、ハズレクジを誰かが引く可能性はあって、そのハズレクジを引いた人にとってその低リスクは真実では無い。有意差として出ないなら誰も気付く事はできないだろう。しかし絶対的真実ではないものを絶対的真実のように振る舞う人間を、僕は合理的だとは思わないし、科学や真実に対して誠実だとも思わない。
加えて言えば、ゼロリスクを求めるのは非現実的な態度だろうが、その説得を諦めて、リスクをゼロと誤認させるようなレトリックを使い、その事によってリスクが顕現化した時に、自分の言葉を誤認した人たちをゼロリスク信仰だと切り捨てる態度もどうなのだろう。合理的に考えれば、ゼロリスク信仰だけが悪いのでは無く、ゼロリスクを説いた人間、ゼロリスク信仰を広めた人間も悪いという事になるだろう。そして、それを説いた人間というのは、行政や科学の側の人間だし、その理由も合理性からではなく、心が易きに流れた結果だ。
科学だ論理だと良いながら、人を説得する為に非科学的、非論理的な過剰な数字を設定してしまった自身の心の弱さには気付く事もできず、反省もできない。そしてゼロリスク信仰などと相手を非難する理屈をひねり出し、その信仰を生んだ自分自身を棚に上げてる事に気付かない。傍から見れば、非合理的な感情的な態度にしか見えない。


差別を理屈で正当化しようとする人たちがいる。自分の理屈は合理的だと思っている。でも、そういう人たちは差別している対象への嫌悪感とか悪感情とか、そのような先立つものがあり、その感情を正当化する為に理屈を捏ねている事に気付いていない。(彼らなりの)合理的理由が先にあって差別しているわけでは無くて、差別する(受け入れられない)理由を後付けで探しているのだ。
LGBT……同性婚を例にする。重婚や近親婚、未成年者との婚姻などが認められていないのに、同性婚が認められるなんておかしいという人たちがいる。彼らの多くは、同性婚が認められるなら、重婚や近親婚、未成年者などとの婚姻を認めて欲しいという社会運動をしようとしない。彼らとしては、それらを「忌まわしき」婚姻として同じものとして括り否定しようとしているだけなのだ。さらに重婚や近親婚は子どもができる点で同性婚より生産的だなどと言う。「忌まわしい」同性婚は、「忌まわしい」そして社会に承認される事で無いであろう重婚や近親婚より下の存在なのだという理屈なのだろう。
しかし、それが、同性婚と重婚や近親婚等を、同じカテゴリーに入れている人たちの間でしか通じない、極めて主観的な理屈だと気付いていない。そのカテゴライズの正当性を疑う事ができない。今はそのようなカテゴライズを社会と共有できないという事実が認められない。今の社会では、そのような理屈を振り回すのは合理的な態度ではない事や、同性婚を「忌まわしき」婚姻の1つとして嫌悪しているという(非論理的な)感情の単なる表明に過ぎない事に気付かずに、自分は合理的で論理的思考もできる人間だと信じて疑わない。
杉田水脈氏の、LGBTが子どもを産めない事と生産性を結びつけたり、LGBTアイデンティティではないのだと否定したりしているのもきっと後付けなのだろう。僕には自分が否定したいものを自分の都合の良いように理解しているようにしか見えない。本気でLGBTへの支援が度を過ぎていると考えて、それを訴えたいと思ったとしたなら、なぜ自分のその考えが正しいのかまず検証しようとしないのだろう。LGBTの事を知ろうとしないのだろう。LGBT当事者から学ぼうとせずに、自身の狭い経験から女子校の疑似恋愛になぞらえてLGBTを理解したつもりになって、その前提で論を展開する。その論のどこに合理性があるのだろうか。また、どうして杉田水脈氏の身近にもいるはずの、子どもを産めない人や子どもを産まない人に対しても、生産性がない云々という理屈が当てはまる事に考えが至らないのだろう。いや、きっとLGBTとそのような人たちを分かつ彼女なりの理屈(同性愛は疑似恋愛等)があるのだろう。
繰り返しになるけど、杉田水脈氏の言葉は、LGBTに対する否定的な感情・バイアスが先行している感が否めないように見える。
まあ差別については僕も自戒しなければいけない部分はある。


合理や論理を追及する人たちの中には、人の感情や曖昧さを嫌う人たちがいる。彼らは、社会において、合理や論理というのが一意に決まるものでは無いという事に気付かない。だから、みんなが、合理や論理を追及していけば、人々が分断され、自分たちもまた淘汰の対象になるという事にも気付かない。自分たちが、人の感情(共感と寛容)や曖昧さ、ダブルスタンダード、といった非論理的な部分に救われている部分も多々あるのだという事に気付かない。


合理や論理を追及する人たちの中には、AIの出した答えに感情移入しているかのように振る舞う人たちがいる。自分たちはAIのように論理的なつもりかもしれないけど、感情やAI贔屓のバイアスが一目瞭然なので滑稽に過ぎる。彼らは、AI(コンピュータ)に人間性がない事からといって、AI(コンピュータ)を使う人間まで人間性を無くしてはいけないという事がわからない。


ああ纏まらない。何が言いたいかというと、1つは、理屈人間は、自分の理屈を通したいという自身の欲求に支配されて、寛容性、柔軟性を喪失している事に気付けって事。
もう1つは、差別を正当化しようとする理屈に対して、その理屈はおかしいと指摘するのは大切な事だと思うけど、差別を正当化しようとする行為自体に対して、心理学的にその人の差別心やバイアスの存在を明らかにする(理屈は後付けだと明らかにする)事も必要だと思うって事。その人を非難する為では無くて、誰でも差別心やバイアスを持ってるという自覚を促す教材とする為に。
差別と戦うには、まず自分の中の差別心とバイアスを理解する事だと思ってるから。それでも結局、心や感情のある人間である一個人の中から完全に差別心やバイアスを消すのは不可能だと思うから、社会に差別対策を求めるしか無いと思ってる。