アウティング(LGBT )

LGBTアウティング問題については納得いかない部分があります。
LGBT当事者が「社会にはLGBT差別が現にある」と認識し、LGBTという悩みを一人で抱え込み、周りにカミングアウトできない辛さを知っているのなら、自分がLGBTであるという事実をカミングアウトされた人に自分の秘密を抱え込ませる重みというのはわかるはずです。それが少数、特に一人ならなおさらです。さらに言えばアウティングが許されないなら、(LGBT当事者はカミングアウトに関して自己決定できるものですが)カミングアウトされた人はアウティングについて自己決定できません。
もう1つの疑問は、アウティングの結果、そのLGBT当事者が所属し関係性が緊密な小さな社会がLGBT当事者を受容した場合、アウティングは是なのか非なのかと言う事です。どのような場合も否なのでしょうか。その場合、LGBT差別がない社会でもLGBTに関するアウティングは非なのでしょうか。
アウティングという問題提起に関しては、社会の差別については見ない振りをして、目に付く個人の行動について画一的に糾弾する姿勢のように感じられてなりません。私はアウティング自体を悪とするのはどうなのかと思います。問題は、どのような目的を持って、或いは、どのような結果を予測してアウティングを行い、そのLGBT当事者にとって大切な社会において、どのような現象を引き起こしたのかと言う事ではないでしょうか。
アウティング自体に悪意が見いだされればそれは悪でしょう。アウティング自体はカミングアウトされた人が真剣に受け止め方に悩んだ結果として身近な誰かに相談したものであったけれど、それがLGBT当事者の属する社会に影響を及ぼしてしまった場合、アウティングした個人に責任を問うのではなく、その社会の差別性自体を問い、是正していくべきなのではないかと思います。もちろんどういう意識でアウティングを行ったかという区別は難しいとは思いますが。
受け止め方に悩んだ事自体が差別だという向きもあるでしょうが、私は人には色々な人がいていいと思っています。カミングアウトされた秘密の重みに耐えられないというのは「1つの個性」だと思いますし、同性愛という価値観を個人的に受け入れられないというのは「1つの価値観」だと思います。
ただ個人的に受け入れられないから社会でも受け入れないで欲しいと思って、そのような言動をすればそれは大いなる差別でしょう。同性婚は非生産的だから認めるべきではない等というのは酷い差別であると思います。しかし、LGBTを個人的には受け入れられないけど、LGBTが社会的な不利益は受けないで欲しい(例えば同性婚を異性婚を平等に扱う事に反対しない)というような価値観はありではないでしょうか。人は誰でも差別しているのだと自覚し、個人の差別を問うのではなく、個人の差別を社会に波及させない事が大切なのではないかと思います。もちろん「誰でも差別している」と言う事を差別の言い訳にして良いというわけではなく、だからこそ(個人の平等には限界があるからこそ)社会というシステムにおいて平等に扱う事を望んで欲しいと考えています。