新潮45と杉田水脈氏

前に書いた事の焼き直し。

私は個人の心の中に差別があるのはしかたないと思います。
家族を優先するのだって突き詰めれば差別でしょう。しかし、多くの人には家族があり、家族に恵まれない人には社会福祉がある。そういう社会であれば(それでも特定の場面に限って)家族の内集団ひいきは差別ではなくなるのだと思います。だから私は、個人の中の差別を責めるのは(自分を客観的に見られない人とか自分を都合良く棚の上に上げられる人とか以外には)生き辛い世の中になると思っています。
もちろん個人的に受け入れられないから社会でも受け入れないで欲しいと考え、そのような言動を行うのは大いなる差別だと思います。同性愛は非生産的だから認めるべきではない等と主張するのは酷い差別であると思います。人の価値をすべてを生産性で語るならまあ一貫性もあるでしょうが(これはこれでめちゃくちゃ問題がありますけれど)、語るものと語らないものがある時点で、とってつけた差別心に対する自己弁護に過ぎないように感じられます。そして、それを擁護している人たちは「正しい自分は差別なんかしないのに差別してると言われる」という心の傷をお互いになめ合っているように見えます。そんな自己弁護なんて真っ当な議論のきっかけになんてなり得ません。
私は、LGBTを個人的に受け入れられない人こそ、LGBTが社会的な不利益は受けないで欲しいと(LGBTに対する福祉の充実を)願うべきなんだと考えます。そして、差別と戦うとする人たちは、差別的な考えを敵や悪とみなして、人の内面まで踏み込んで叩き潰そうというような個人の差別と戦おうとするのではなく、人は誰でも差別しているのだと自覚し、個人の差別を社会に波及させないように戦う事こそ大切なのだと思います。